沖縄の日刊新聞「琉球新報」の副読紙「週刊レキオ」沖縄のローカル情報満載。



[No.1604]

  • (金)

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「表紙」2016年01月21日[No.1604]号

母娘燦燦

母娘燦燦 — おやこ さんさん — 41



方言ニュースキャスター 伊狩 典子さん(いかり ふみこ)
沖縄調理師専門学校琉球料理主任 伊狩 麻澄さん(いかり ますみ)

母のぬくもり伝えるうちなーぐち

 「1時の方言ニュース、うんぬきやびーん(お届けいたします)」。ラジオから流れる柔らかな旋律のようなうちなーぐちがぬくもりをもたらす。ニュースキャスターは、伊狩典子さん(87)。首里に生まれ育った伊狩さんは、女の務めとしてうちなーぐちを身につけ、厳しい礼儀作法をわきまえた。男女の差別に、「なぜ、どうして?」と疑問を抱きつつ、生来の負けん気で人生を開く。行動する母の代わりに台所に立った娘の麻澄さん(52)はやがて食の道へ。「母がうちなーぐちを伝えるように、伝統の琉球料理を伝える一助になりたい」と語る。



「やーなれー」を身に付けて

 「うきみしぇーびてぃ、学校かいんじちゃーびらをぅー(おはようございます、学校へ行ってまいります)」

 1928年、那覇市首里で質屋を営む旧家の6人兄弟の末娘に生まれた伊狩典子さん。毎朝、父や母に三つ指をついてから登校した。戦前の首里の暮らしである。言葉遣いと礼儀作法に厳しく、「兄たちは大和口(やまとぅぐち)を話しても、女の子はしとぅうや(姑)に任えないといけない。やーなれーふかーなれー(家の習いが外の習い)で、嫁ぎ先で親に恥をかかせてはいけないとうちなーぐちを教えられました」。典子さんは、なぜ、どうして女だけ? と、差別感を感じた。

 県立師範学校を出て教職に就いた兄に続いて、典子さんも教師を目指すも戦局悪化で、学童疎開引率教師の兄とともに熊本へ。終戦の翌年に引き揚げ、引き取り手のいない児童とともに再会した父母とカバヤー(テント小屋)で暮らした。



「なぜ、どうして?」

 典子さんの戦後の人生は、首里城跡に開学した琉球大学の事務局勤めから始まった。初代学長・志喜屋孝信氏の秘書を務めながら、学生に混じり演劇部に参加したという。戦前、女であるがゆえの窮屈な時代から解き放たれた典子さんがそこにいた。

 1954年、青年会活動が活発なころ、26歳の典子さんは日本青年団の地域活動研修で上京。沖縄は米軍統治下にあって、「琉球人」と呼ばれ差別されたという。その差別感にも「なぜ、どうして?」という疑問が生じた。そして、持ち前の負けん気で相手と互角に議論、飲み合いをやってのけた。3年後、琉球王朝時代に冊封使が来琉したかの国の現状を見てみたい一心で応募した外国派遣員として、約2カ月間かけて新生中国の14都市を視察。その間に国の要人はじめ、各地域の若者たちとの交流を積極的に果たした。

 典子さんの進取の気性は、結婚後もやまない。伴侶となった伊狩登さんは琉球大学3期卒業生で徳之島出身。2男1女に恵まれるも「今しかない」と、1973年婦人指導者海外研修(全国婦人の翼)で1カ月余のカナダ・アメリカ・メキシコ視察へ。「当日は次男が小学1年生、長女は小学校最後の運動会の日、母として参加せずにはいられないでしょう」と、麻澄さんは典子さんの行動力に感心するばかり。そんな典子さんを登さんは理解した。呆れつつも、英語がままならない典子さんのために、投函すればよいだけの自宅あての封筒を手渡したという。

気持ちは永遠の乙女

 50代半ば、典子さんは自らライフワークを得ることとなる。ラジオ沖縄の長寿番組「方言ニュース」の席が空き、「ほかに男性はいないか」と声が上がった。またしても差別だと感じた典子さんは、「わたしに白羽の矢を立ててください」と名乗り出たという。

 社会活動に脂が乗る典子さん。伊狩家の台所に小学校高学年の麻澄さんが立った。「父は日曜日におにぎりをこしらえさせ家族を海に誘った。仲のよい両親から家庭の温かさを受け継いだ」。しかし、登さんは50歳の若さにして他界。女手一つで子どもを育てる母の強さを見て、長男は建築家、次男は教師になり、麻澄さんは食の専門家として伝統的な琉球料理に目覚める。「新島正子先生が遺した琉球料理をきちんと継承していくための技術を安次富順子先生の下で習得中です。文化の継承は、母と通じるものがある」と麻澄さん。がーじゅーですが、継続は力となるから、探究心は似通うと母と娘は声をそろえる。

 「気持ちは永遠の乙女。しきのーてぃーうぃーどー(世間は皆自分の師と思え)を胸に、いなぐぬうやぬ、ふちゅくるんかいだかとーんねーさびん」と、子どもに寄せる愛情のようなぬくもりをうちなーぐちで伝えたいと語る。

(伊芸久子)



プロフィール

いかり・ふみこ
 1928年那覇市首里生まれ。1945年学童疎開の世話係で熊本に渡り、県立水俣高等女学校を卒業。1951年琉球大学事務局、1958年那覇市役所に勤務。1959年琉球大学3期卒業生で徳之島出身の伊狩登さんと結婚し2男1女に恵まれる。県婦人連合会事務局、那覇市末吉老人福祉センター所長など歴任。1982年よりラジオ沖縄方言ニュースキャスターを務め、うちなーぐち講演も数多い。現在県立看護大学非常勤講師

いかり・ますみ
 1963年コザ市生まれ。1984年別府女子短期大学卒業後、新島料理学院(現沖縄調理師専門学校)で料理助手に就く。結婚後、病院給食に携わり、2006年より沖縄調理師専門学校勤務。栄養士、専門調理師(給食用特殊料理)全国調理職業訓練協会認定介護食士指導員



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伊狩 典子さん 伊狩 麻澄さん
「二人ともがーじゅー(意地っ張り)。うちなーぐちと琉球料理を継承する同士。継続は力なり、探究心旺盛は一緒」と笑う伊狩典子さん(写真右)、麻澄さん親子 =南城市知念久原にある行きつけの「洋風料理店ビストロブーケ」で   
写真・村山 望
伊狩 典子さん 伊狩 麻澄さん
ラジオ沖縄「方言ニュース」のキャスター歴は33年。毎週(火)・(木)午後1時放送
伊狩 典子さん 伊狩 麻澄さん
伝統の琉球料理の授業を受け持つ伊狩麻澄さん=沖縄調理師専門学校
伊狩 典子さん 伊狩 麻澄さん
1969年の正月に家族そろって。夫の伊狩登さんは36歳
伊狩 典子さん 伊狩 麻澄さん
子煩悩の登さんが撮ったほほ笑ましい日常の風景
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