沖縄の日刊新聞「琉球新報」の副読紙「週刊レキオ」沖縄のローカル情報満載。



[No.1644]

  • (金)

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「表紙」2016年10月27日[No.1644]号

父娘日和

父娘日和 30


知念 正次郎さん
安座名 あけみさん

父の後継ぐ、ウミンチュ一家

 南城市玉城、東海岸に架かる2㌔ほどの橋の先は、ウミンチュの島「奥武島」だ。旧暦10月まで、港に干しイカが揺れる光景は沖縄の季節の風物詩で知られる。かつてイカ漁と刺し網漁で鳴らした知念正次郎さん(77)は、18歳で漁に出て以来この島で海に生きてきた。地元出身の照子さんと世帯を持ち、長女の安座名あけみさん(52)ら5人の子どもを海の稼ぎとサトウキビの収穫で育て上げた。今、長男と孫2人が船に乗り、あけみさんは刺し身店を営む。父を継いで、奥武島の港のそばで暮らすウミンチュ一家を訪ねた。



「18歳、サバニで毎日海歩いた」

 知念正次郎さんは、11歳のころ父の友人の後継ぎになり玉城村(現南城市)の前川集落から奥武島に移り住んだ。漁に出たり向こう岸の畑でサトウキビを栽培したり、島は半農半漁で生計を成り立たせる家が多かった。

 正次郎さんは18歳で初めて漁に出た。「他に仕事はないから、島の先輩ら3人でサバニに乗って久高島沖合でイラブチャー(オオブダイ)、シチュー(シチューマチ)の刺し網漁をした」

 夕方、海底に設置した網を翌日の明け方に引き揚げる刺し網漁。正次郎さんは海に出たての使われの身、先輩漁師に漁法をたたき込まれた。素潜りで網を外して引き揚げる。漁獲は多くても、漁の稼ぎは船主のものであった。

 船を持ってこそ一人前のウミンチュだと強く思った正次郎さんは、20歳のころ初めて自分の船を所有する。糸満の大工に頼んだサバニを駆って人を使い漁に出る正次郎さんは、よく日に焼けた大人の面構えの漁師となった。

奥武島初コンプレッサー船

 サバニからエンジン付きの漁船へ。船が大きくなるに連れ自宅も建て替えるように、正次郎さんは成功するウミンチュ人生を象徴する。

 大漁の日もあれば、漁に出られない天候も続く。安定しないウミンチュの暮らしに苦労はするものの、正次郎さんは23歳のころ中学校の同級生だった照子さんと世帯を持った。

 結婚後、7坪ほどのトタン屋根の家で暮らすうち、5人の子どもに恵まれた。「子どもを育てるため、毎日„海を歩いたよ“。サトウキビも作り収入をまかなった」。トタン屋根の家で暮らしたころ、長女のあけみさんは小学1年生。「台風が来ると、子どもは公民館へ避難した」と、当時の暮らしを語る。

 台風に備えて、島にもコンクリート造の家が建ち始めていた。沖縄の祖国復帰前、ドル通貨時代のこと。サトウキビ作り、イカ漁、刺し網漁、モズク漁に励み、蓄えた現金100ドルで2隻目の船を購入する。サバニより一回り大きな船にコンプレッサーを取り付けたのは、正次郎さんが奥武島で初めてのウミンチュであった。

長男、孫2人漁を継ぐ

 エンジンの動力でコンプレッサーから空気を取り込めるようになると、素潜りと桁違いに海中の滞在時間が増える。

 「コンプレッサーの導入は仲間たちに反対されたが、漁は経験と自分の勘、漁場も分かってきた」と語る正次郎さんを、„学校の勉強よりジンブンに優れた人“と評して笑うあけみさん。

 明け方4時、正次郎さんの船が刺し網の引き揚げに漁場に向かう。照子さんが魚の入ったたらいを頭に載せて„カミアチネー(魚の行商)“に出る朝7時に港に戻らなければ間に合わない。

 照子さんは、島のバス停から那覇のマチグヮー(市場)に毎朝向かった。漁の多い日は、内陸の集落の志堅原辺りまで売り歩いたという。正次郎さんの漁と、照子さんのカミアチネーで収入が増え、コンクリート造の知念家が建った。

 住宅に食堂と刺し身店を併設したころ、あけみさんに良縁が訪れる。照子さんの店によく訪れた島出身の消防士の縁から、両親の薦める縁談が実った。あけみさんは22歳で八重瀬町に嫁ぎ、現在子ども4人の母親である。

 奥武島でモズク養殖が始まり、いち早く手掛けた正次郎さんはサトウキビ栽培と漁獲の暮らしから生活が安定した。 長男の正光さん(51)は中学・高校のときから正次郎さんと„海を歩き“、現在モズク養殖と刺し網漁で一家の生計を立てるウミンチュだ。正光さんとあけみさんの長男2人も祖父仕込みの刺し網漁で潜る。

 奥武島の港の向かいに立つコンクリート造の2階建て。正次郎さんがウミンチュ人生を懸けた証しである。

(伊芸久子)



プロフィール

ちねん まさじろう
 1940年玉城村(現南城市)前川に生まれ、父の友人の後継ぎとして11歳で奥武島へ移住。18歳でウミンチュ(漁師)になり、20歳過ぎにサバニを所有し独立。22歳、照子さんと世帯を持ち、刺し網漁とサトウキビ栽培の半農半漁で生計を立ててきた。子どもは5人、孫17人、ひ孫4人。長男正光さん、孫2人が後を継ぎ、刺し網やモズク養殖に携わる。最近は漁に出ることはなく、正光さんの網を修理する

あざな あけみ
 1964年奥武島に生まれる。正次郎さんの長女。高校卒業後、上京。半年ほどで帰郷し、母親の照子さんが営む刺し身店と食堂を手伝う。22歳で結婚し八重瀬町在住。子ども4人。現在、母、姉妹、娘と一緒に食堂、てんぷらの店を営む

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知念正次郎さん 安座名あけみさん
正次郎さんの名前を冠した2隻目の漁船の前で、長女のあけみさんと。11月、母と姉妹、娘共に営む刺し身店とてんぷら店をリニューアルオープンするあけみさん=奥武島漁港
写真・村山 望
知念正次郎さん 安座名あけみさん
漁から戻り、刺し網を洗う30代の正次郎さんと、照子さん(写真中央)、右は照子さんの母親
知念正次郎さん 安座名あけみさん
「正次郎丸」を購入したころ。石油ランプでイカ漁もした
知念正次郎さん 安座名あけみさん
次男の正二さん。東京で10年間料理修業後、島に戻った
知念正次郎さん 安座名あけみさん
漁港でトビイカを干す照子さん、モズク漁・刺し網漁師の長男の正光さん(写真中央)、あけみさんの長男
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