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[No.1504]

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「島ネタCHOSA班」2014年02月06日[No.1504]号

今帰仁城の疲れない階段

 先日、桜を見に今帰仁城跡に行ってきました。入り口の門から城の中へと続く階段は「三・五・七」という段数になっていて、「上っても疲れない」造りになっていると聞きました。昔の人が考えた段数なのでしょうか?(南城市・Mさん)

今帰仁城の疲れない階段!?

 「三・五・七」って、子どもの健やかな成長を願う七五三のようですが、何か関係があるのでしょうか? 謎を調査するため、「日本一早い」桜の開花で毎年多くの人でにぎわう、本部町八重岳、名護市のナングスクと並び、桜の名所として知られる今帰仁城跡へやってきました。


聖地守って整備

 「今年は去年に比べてたくさん咲いていますよ。きれいでしょう」とうれしそうに話すのは、今帰仁城跡で案内ガイドを務める仲嶺盛治さん(80)。県内外から訪れる人たちに、今帰仁城跡の魅力を伝えています。

 早速、石の階段へ案内してもらいました。城の正門とされる「平郎門」から建物跡が残る「大庭」と呼ばれる広場へと続く石段は、確かにそれぞれ「踊り場」のスペースを挟みながら「三・五・七」の順に繰り返されています。

 これが上っても疲れないといわれる階段ですか?

 「はい。『七五三の階段』と呼ばれていて、戦後に造られたものなんですよ」

 階段の両端には、見頃を迎えたカンヒザクラの濃いピンク色が、石段を上る人たちの目を楽しませていました。どうして階段を造ったのでしょうか?

 「戦後まもなくは、土でできた坂道だったそうです。そこを米軍の車両が行き来していました。上の方(城の中枢部)には地元の方たちが大切にしている聖地があって、それをこれ以上荒らされないようにと、石段を整備したと聞いています」

 全部で83の階段を往復しても、息を切らせることなく今帰仁城の魅力を余すところなく話す仲嶺さんはガイド歴8年。

 「案内するお客さんの中には、『気づかなかった』『なるほどねぇ』と、説明しないと『七五三』の数に気づかない人もいますがね。でも何度も上っているうちに分かるんです。段の間にある踊り場の幅も微妙にそれぞれ違う。この『三・五・七』という絶妙なリズムが、急な坂道を上ってもなぜか心地よい。自然の地形に沿ってよく造られていると思いますよ」

海を渡ったアイデア

 石段が整備された理由までは分かりましたが、「疲れない」といわれているのはなぜでしょうか? 今帰仁村教育委員会文化財係の与那嶺俊さん(33)に話を聞きました。

 「以前、県外でこの階段の造りを取り入れた歩道橋があるらしく、その理由は『上っても疲れない』という構造だったからだそうです」

 今から35年ほど前、今帰仁城跡の「疲れない」石段の話を聞いた埼玉県の関係者が、七段・五段・三段ごとに踊り場がある歩道橋を設置。石段が人間工学的見地からも「疲れにくい」ということが理にかなっているということで検討した結果、同県の県道に設置されたというエピソードが。お年寄りや子どもが楽に上れるように、との思いが込められていたようです。当時、沖縄県内の地元紙に取り上げられ話題になったとか。

 「『疲れない』といわれるようになったのは、そこからきているのかもしれません」

 歩道橋は現存しているかどうかは不明ですが、遠い地で「今帰仁発」のアイデアが生かされていたとは驚きです。

 ではなぜ「七・五・三」だったのでしょうか? 石段が造られたのは1958年。当時中心となって階段の整備を進めた琉球政府文化財保護委員の故・新城徳祐さんは地元・今泊区の出身で、神主の資格を持っていたそうです。「七・五・三」という数は、縁起の良い語呂合わせだったと同時に、呼吸を整えるのにちょうど適したリズムだったのかもしれません。

 階段から見えたのは、満開を迎える桜と、優雅な曲線を描く城壁の石垣。そして今、目にしている風景が、時代を経て13世紀からこの地に続いてきた歴史の一部なのだと思うと、疲れも忘れる調査員でした。本当に疲れないのかは、ぜひ自分の足でお試しあれ。



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今帰仁城の疲れない階段
仲嶺盛治さん
今帰仁城の疲れない階段
「疲れない」といわれている「七五三」の階段=今帰仁村字今泊・今帰仁城跡内
今帰仁城の疲れない階段
与那嶺俊さん
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