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[No.1633]

  • (金)

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「島ネタCHOSA班」2016年08月11日[No.1633]号

八重瀬町安里にエイサーの原型

 旧盆のウークイは、地元の見事なエイサーの演舞が楽しみです。もともと念仏踊りだといわれるエイサーの原型が南部に残っているって本当ですか? 

(宜野湾市 エイサードコサー娘さん)

八重瀬町安里にエイサーの原型!?

 旧盆の時期、エイサーの太鼓や三線の音色が聞こえるとチムドンドンした調査員。エイサーのことなら民俗芸能研究者の宜保栄治郎さんに聞くしかありません。この際、エイサーを見直してみましょう。

エイサー歌は念仏

 ―エイサーの由来を教えてください。

 1713年編さんの「琉球国由来記」に、「本国の念仏者は万暦年の尚寧王時代に袋中という大和の僧がやってきて、仏教の文句を分かりやすくして、初めて那覇の人民に分かり易く伝えた。これが念仏の初めである」とはっきり書かれています。この念仏とは、現在のエイサー歌のことです。

 沖縄芸能研究家山内清彬(1890〜1986年)は、その著に袋中上人は「148首」の念仏歌を作ったと述べています。

 ―供養を表す念仏歌が現在のエイサー演舞に発展したのはなぜでしょうか

 勝連半島の安慶名や屋慶名も古いエイサーで知られますが、実はこの2カ所のエイサーも袋中上人が教えた念仏踊りの原型ではなく、エイサーを華やかに発展させ、見る人に感動を与えるために変化させた型なのです。

 私は長年、袋中上人が伝えた念仏エイサーがどこかに残っていないかと探し回った結果、八重瀬町安里に伝わっていることを突き止めました。

 安里にはエイサー歌の「継親念仏」「親のご菩提」「親のご恩」「仲順流れ」「庭念仏」など、数十行からなる念仏歌が残っています。この歌と踊り方こそ袋中上人が「念仏を和らげて、人民に教えた」とする証拠です。

 「継親念仏」は旧士族が沖縄諸島の各地に持ち帰り、王府時代末期まで「七月エイサー」の祖先供養として踊られました。しかしあまりにも単純なので、最初の2、3行だけを歌い、後半は「毛遊び(モーアシビ)」でにぎやかに踊るようになり、祖先供養である目的まで忘れてしまったのです。八重山諸島には今でも安里同様に「アンガマ」の名称で原型に近い念仏踊りが残っています。

祖先供養の祭り

 ―念仏踊りの安里エイサーはどのような型ですか。

 安里エイサーは以前、旧暦7月13日、14日、15日の3日間、区内の家々を夜が明けるまで次のような一団で踊っていました。

 踊り手は琉球絣を着た20〜30人の男女。地方(じかた)は、クバ笠を被った三線弾きと小太鼓打ちそれぞれ2、3人。歌詞は、道歌と、各家の庭で歌う「継親念仏」1曲のみです。踊り方(振り)は、道歌を三線に合わせて「サユラン節・ピーラルラー節」をみんなで歌い、庭歌になると男女入り混じって円陣を組み、三線弾きは円陣の中に入ります。三線弾きが「継親念仏」を歌うと、踊り手は円の中へ手拍子で8拍、外へ8拍を繰り返すのみ、複雑な踊り方は一切なくいたって単純です。芸能は単純なものから複雑なものへ変化します。従って単純なものほど古いのです。安里では現在、青年会によって「中部エイサー」が踊られています。

 ―なぜ安里にエイサーの原型が残ったと考えられますか。

 それは「お盆は祖先を供養するための祭りである」という袋中上人の教えを400年間忠実に守ったことに外ならないのです。ほとんどのエイサーは、豊年祭に変化し、歌詞も「毛遊び」を取り入れて変化に富んだ楽しい芸能になっています。安里区にはぜひエイサー歌の保存に取り組んでほしいと思います。

 宜保さんの話を聞いて、八重瀬町安里に伝わるエイサーの原型がいかに貴重な民俗芸能なのかを知った調査員でした。



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八重瀬町安里にエイサーの原型
宜保栄治郎さん
八重瀬町安里にエイサーの原型
「安里エイサー」の庭歌の場面。2004年に上演された映像の記録より
八重瀬町安里にエイサーの原型
踊り手の円陣の中で、三線弾きが「継親念仏」を歌う。踊り手が、外へ8拍、内へ8拍を繰り返して踊るエイサーの原型
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