「島ネタCHOSA班」2016年10月20日[No.1643]号
職場の野球チームでピッチャーを任されました。変化球は打ち込まれるばかり。甲子園を沸かせたあの「宜野座カーブ」をマスターしたいので、投球の秘密を調べてください。
(那覇市 永遠の野球少年さん)
「宜野座カーブ」は円盤投げ!?
宜野座高校野球部が甲子園(全国高校野球大会)に出場したのは2001年春・夏、2003年夏の3回。01年春の大会は、21世紀枠での初出場ながら強豪相手にベスト4まで勝ち抜き、全国に名を轟かせましたね。
当時、縦に鋭く落ちるカーブを投げ、打者を翻弄(ほんろう)した比嘉裕投手。現在、名護市で土木工事関連会社に勤務していると聞き、車を走らせました。
比嘉投手は野手だった
当時投げたのが「宜野座カーブ」ですか?
「名前が付いたのは2年後輩の佐久本匠投手(現・本田技研野球部)が投げた02年の九州大会で準優勝した時で、大手スポーツ紙の記者が命名したのではないかと記憶しています」
比嘉さんが投げたのは、「宜野座カーブ」ではなかったのですか?
「同じ球種です。このカーブは、当時の奥浜正監督が指導していた変化球で、宜野座高校野球部に代々受け継がれていました。先輩が投げるそのカーブを初めて見た時、落差が大きくとんでもない球だと思いました。カーブなのですが、フォーク。野手だった私が、あの球を投げるとは思いませんでした」
え! 野手だった? なんと、比嘉さんが投手になったのは高2の時、けがをしたエースの代わりに名乗りを挙げたからだとか。
「いきなりあのカーブを投げられる訳はありません。毎日400球近くを投げました。とはいっても力を入れるのは、150球前後。残りはフォームの確認のため腕を振り続けました」
投球方法は肩や肘に無理な負担がかかりませんでしたか?
「誤解されがちですが、『宜野座カーブ』は決して無理な投げ方ではないのです。バドミントンやバレーボール、ボクシングや円盤投げなど、あらゆるスポーツの肘の動きなのです。奥浜監督は、きちんと理論を説明してくださいました。あとは練習を重ねて身に付けるだけなのです」
カーブの既成概念覆す
比嘉さんの話から「宜野座カーブ」が少し見えてきた調査員。誕生の秘密に迫るため、生みの親である奥浜正さん(56)を勤務先の北部農林高校に訪ねました。
「強豪校がひしめく沖縄で、宜野座高校の生徒たちが肩を並べるにはどうしたら良いか?野球を一つ一つ見直すことから始めたのです。『宜野座カーブ』は当たり前の事を疑うことから生まれたのです。」と、奥浜さん。いきなりの持論に面食らうも、投球法に興味は募ります!
「高校の授業で円盤投げをやったとき、『力任せに投げる』のではなく、『力で切る』のだと教わった記憶が残っていました。『宜野座カーブ』は偶然の産物。職域野球時代、カーブも『指で切ってみよう』と試しに投げたのが誕生のきっかけです」
なんと、奥浜さんが高校生のころ、円盤投げの記憶から生まれた投球法! ボールを投げ込むとき、「人さし指で強く切る」ことが、横から投げる円盤投げと同じだというのです。
「さあ! 円盤を投げてみれば分かりますよ。腕を内側にひねる動きは、バドミントンのスマッシュに似ているでしょう。ただ、『カーブはこういうもの』といった既成概念は拭い去る必要はありますね。アタマとカラダが固いとけがしますよ」
いつのまにか調査員は奥浜さんとグラウンドに立ち、円盤を投げていたのでした。
あ、奥浜さん。最後の質問です。なぜ宜野座高校は3度の甲子園出場を果たせたのでしょう?
「生徒たちが自分で言い出した事は最後までやりきった。自分に向き合う事のできた生徒は、ボールにも人生にも向き合うことができているはずです」
投手の比嘉裕さん(33)