「島ネタCHOSA班」2017年04月06日[No.1667]号
沖縄市越来の住宅地を通りがかったら、民家の庭先に尚泰久が植えたという白椿がありました。沖縄市の文化財らしく、説明板には今も花を咲かせていると書いてあります。長い年月をどう生きながらえたのか、不思議でなりません。
(沖縄市 永遠の乙女椿さん)
尚泰久 忘れ形見の白椿!?
なんて由緒正しい椿! それも赤ではなく、白椿。花影に歴史のロマンを秘めているに違いないと、直感の赴くまま調査開始です。
文化財の保護を行っている沖縄市立郷土博物館に問い合わせると、川端家という旧家だと分かり、斜面を下った越来の静かな住宅地にたどり着きました。
ブロック塀の向こうの家のあるじは不在の様子、門扉越しに椿の木が2本見えます。赤い花を2、3輪咲かせた高木の隣にある高さ2メートルほどの低木がその椿だと分かりましたが、花の頃はすっかり終えていました。
「越来王子」と村娘
川端家の前にある説明板で、尚泰久(1415〜1460年)が白椿とともにミカンの木を植えたいきさつが分かります。尚泰久は、第一尚氏王統六代目の王に就く以前、越来グスクの領主で越来王子と称し、世理休(せりきゅう)という村娘との間に男の子が生まれたので当地に家を建てて住まわせ、誕生記念に白椿とミカンの木を植えたとあります。
咲き終えた椿を前にして、尚泰久と世理休のロマンスや椿の植樹は伝承に過ぎないのでは…、ふと疑問にかられた調査員は沖縄市立郷土博物館文化財係長の縄田雅重さんに聞きました。
「尚泰久が越来の領主であった時、世理休という名の妾(めかけ)をめとった。すでに男子を生み、江洲按司と称すと伝わっていると、『中山世譜』に記されています」と、琉球の正史で尚泰久のロマンスをひも解きます。
なるほど、村の娘に男児が生まれたことは首里王府が編さんした王家の歴史書に表れているのですね。
「越来のウシデーク(臼太鼓)も、尚泰久の子どもの誕生と記念木を植えさせた慶事にちなんで始まったと伝えられていますよ」と、縄田さん。越来グスク発掘調査や当時のお年寄りからの聞き取りをまとめた1988年の報告書を開いてくれました。
毎年旧暦8月15日、越来のウシデークは拝所のある川端家で奉納されているそうです。
越来白椿は二世
尚泰久が植えたとされる1400年代から600年余の長い時を、白椿はどうして生きながらえたのでしょうか――。やはりその疑問に突き当たります!
越来白椿に詳しい椿愛好家がいると、縄田さんから聞いて早速会いに行くことに。
待っていてくれたのは、沖縄椿協会(会長 平良治男)の外間現俊さん。「椿は木の大きさで年代を測るのは難しい。越来白椿は歴史、ロマンを背負って途絶えずにそこにあることこそ貴重」と、今年も越来白椿の開花を確認し、ひとしお思いを寄せています。
外間さんが調べたところ、越来白椿の原木は明治の後期に川端家の建て替えなどで伐採されたのですが、ひこばえが成長して、幹回り85㌢、樹高約5メートルに成長したそうです。
大樹に育った椿にも沖縄戦が襲いかかります。砲弾の破片が幹の中腹に突き刺さり深手を負い、地域の人々や沖縄市役所職員、樹木医らが手厚く保護したのですが、1997年に枯れてしまったのです。
その後の再生について、外間さんは「原木は枯れてしまいましたが、それ以前に挿し木で苗を増やし沖縄こどもの国のふるさと園に2本植えていました。そのうちの1本を川端家に戻したものが現在の木です」と、説明。
さらにもう1本が川端家とゆかりの家の近くで元気に育っているそうで、尚泰久ゆかりの白椿二世は現在、3本確認されているといいます。
地域の人々や専門家に愛され、再生した白椿の来年の開花を楽しみに、川端家を後にした調査員でした。