「島ネタCHOSA班」2021年11月04日[No.1904]号
退職をして趣味の沖縄の歴史散策を楽しんでいるところですが、城岳あたりのことを教えてくれませんか?
(那覇市 ララバイ 50’さん)
城岳公園に遊園地あった!?
那覇市の城岳といえば城岳公園。調査員もよくおにぎりを持って遊びに行ったものです。では、散策しやすい夕方を狙ってウオッチングに!
公園敷地の高台に上ると、広々とした芝生の広場や砂場やブランコのほか、木陰の下には母屋やたくさんのベンチが。公園からは那覇高校や県庁が見え、すてきな景色に調査員はしばしうっとり。
この城岳公園がある場所は「城嶽(グスクダケ)」と呼ばれ、古き時代は祭祀(さいし)や雨乞いの祈願が行われた場所。中国から来た冊封使が書いた『琉球国志略』の「球陽八景図」に「城嶽霊泉(じょうがくれいせん)」と題する絵があり、城嶽と東側にある現在の「汪樋川(オウヒージャー)」も描かれているそうですが、かつては遊園地もあったとか。え!?
グループ交際の思い出
『那覇市槪観』(那覇市)を調べてみると、「沖縄文化興行株式会社が城岳の丘上に2,090坪の敷地を選定し、500万円の工費を投じて1951年9月に遊園地『新世界』を店開き。飛行塔、小型観覧車、子供ハイヤー、二連スキングス、メリーゴーランド、木馬などが設備」という記述がありました。当時は学校にも満足な遊具はなかったはず。さぞ遊園地が楽園だったに違いありません。
では当時を知る人に聞いてみましょう!
「2〜3回行きましたかね。たしかに遊園地がありました。私はこの近くの那覇高校に通っていて、戦後間もない7期生です」と懐かしそうに話すのは、沖縄JAZZ協会名誉会長でプロJAZZドラマーの上原昌栄さん。「仲の良いクラスメート男女混合のグループで、高校1年生の秋ぐらいに行きました。乗り物には乗らずにおしゃべりして遊びましたよ(笑)。私は遊園地ができたとき『やったー!』という感じはなくて、友達とおしゃべりする時間がただただ楽しかった。あの頃はまだ学生がデートする時代じゃないから、今で言うグループ交際していましたね」と、楽しそうに写真を見せてくれます。
「私は(那覇)通堂町出身なんだけど、戦況の悪化に伴って祖先の家がある国頭に、歩いて避難したんです。あのころの国頭の学校は茅葺き校舎。戦争の時は山に逃げて、終戦後、また那覇にもどりました。那覇は焼け野原からのスタートだったからね。私が国頭から那覇高校に転校してきたときは、『トゥーバイフォー』という米国規格の角材で早急につくった校舎でした。その後、生徒総出で校舎づくりをして新校舎をつくりましたよ」と、懐かしそうに1枚1枚写真をめくるのでした。
美しい景色と水源
最後にもう少し。
「那覇付近随一の霊所である城岳は全山うっそうと松がしげり、眼下には那覇港が見おろされ。ここにたたずむと暑さも忘れる。王樋川(城岳ひ川)に下り老松のかげからわく水を飲むとその味は甘露で瑞泉(首里城)につぐという」(『那覇今昔の焦点』)、「古波蔵部落の先住地附近から那覇の泉崎に接する近郊で主として那覇系統の寄留人集落。城岳を水源地とする汪樋川など泉井が多い。(樋川は)水量豊かな汪樋川の下流一帯には藺草(イ草)を植えた水田が多かった」(『那覇市史』)とあるように、今回の調査中、この一帯が美しい景色と豊かな水にめぐまれる場所だったことが判明。
城岳公園付近は「古波蔵馬場」、「王の殿」など案内板とともにいろいろな歴史を知ることができるエリア。古い時代に思いを馳せながら小道を散策してみてはいかがでしょうか?
〈参考文献〉
『真和志市誌』(真和志市)、『那覇今昔の焦点』(沖縄文教出版株式会社)、『那覇市史 資料篇第2巻中の7』(那覇市)