「表紙」2012年04月05日[No.1410]号
鮮やかな黄色、大ぶりの花形に圧倒される。島袋貴さん(41歳)は、沖縄市が地域ブランドとしての食用菊に着目したスタート時から産地形成にかかわる、食用菊農家・第1号だ。県や市、JA沖縄などのバックアップと、地域の強い期待を背に、栽培ノウハウの確立から販路開拓まで汗を流し、現在は、市内で栽培に携わる7農家のけん引役となっている。家族で菊作りに取り組む農家が多い中にあって、島袋さんは一人で6つのハウスを手掛け、約3カ月で3トンの収穫量を上げる。菊畑で一心に収穫作業に打ち込む島袋さんに、パイオニアとしての苦労と喜びを聞いた。
将来性高い評価
高校、大学と農業を学び、卒業後まっすぐに農業の道へ。当初は鑑賞用花きを栽培していた。
1994年、県や沖縄市、JA沖縄は、新たな特産物「食用菊」の産地形成のためにスクラムを組んだ。そして、白羽の矢が立ったのが、若き生産者として実力を認められていた島袋さんだった。24歳のころだ。
「父がJAの職員だったこともあり、お話をいただきました。自分のためであることはもとより、地域へ貢献できればと引き受けたんです」
関係者が県外から沖縄へ苗を持ち帰ってから3年後のことだった。
スタート時は、黄色2種、赤紫、紫の4品種を栽培。品質、収穫量の安定化、病害虫対策など、試行錯誤を繰り返した。
「鑑賞用との大きな違いは、当たり前かもしれないけど、”食べる“ということなんです。この鮮やかな黄色は、虫がとても誘引されやすい。半面、出荷1カ月前からはほぼ無農薬にしなければならない。そのバランスは、今でも研究材料です」
と、島袋さんは話す。
技術を確立することと同時に、立ち上げメンバーは、「いつ」出荷するかを慎重にリサーチ。島袋さんも県外へ何度も足を運び、栽培地を視察したり、市場調査を繰り返した。結果、最大産地かつ最大消費地である東北・山形県の生産量が少なくなる1月~4月を狙った。
島袋さんと、彼を見守り、励まし続けた関係者の努力が実り、94年6月に苗を導入・育成を始め、わずか7カ月後の95年1月に、当時、576ケースの初出荷を成し遂げた。色、つや、ボリュームなど、ベテラン産地である山形県産と比較しても負けないと評価される。
「日本中のものが集まる築地市場などで高い評価をいただいて、うれしかったですね」
生産量の99%を巨大な関東マーケットへ出荷しよう―当初からの狙いは当たり、成果は順調に見えた。
しかしふと、地元に卸す1%を見つめ直してみた。菊は、食用としては沖縄の人にはまだまだなじみの薄い野菜。
「鑑賞用でしょ? 食べるの?と聞かれたり、市場に並べても県内ではなかなか動かなかった(売れなかった)。食用菊を作ると同時に、おひたしにしたり、天ぷらにしたりして自分でもよく食べました。この食用菊のおいしさを、地元の人にもっと知ってもらいたいと必死でした」。
沖縄市の産業フェアへの出展や食育の日などに試食会を開催するなど、地道な輪が少しずつ広がっていく。
年中買い物客でごったがえす、沖縄市の「ちゃんぷるー市場」。その一角に「食用菊―生産者 島袋貴」と書かれ、ていねいに包装された黄色い宝石が並んでいる。島袋さんは時々、売り場に足を運ぶ。
「最近は買う人が増えました。売れたらやっぱりうれしい」
と顔をほころばせる。食用菊農家としてキャリア17年目、まだまだ挑戦は続いている。
島 知子/写真・島 知子
しまぶくろ たかし 1970年沖縄市生まれ。県立中部農林高校、大分短期大学・園芸学科を経て、農業の道へ。24歳の時、市を挙げて取り組む食用菊のブランド立ち上げ構想にJAおきなわ職員である父の勧めもあり関わる。沖縄市の食用菊農家第1号。キャリア17年、1人で6つのハウスを世話し、良質な食用菊栽培に情熱を燃やす。
食用菊のおひたし
食用菊の鶏つみれだんご
食用菊の彩り海苔巻き
シャクシャクとした食感と、かすかに香る春菊のような香りと風味が、さまざまな料理に使えます。海苔巻き、ちらし寿司、おひたしなど、加熱しない料理なら下ごしらえは5秒ほどお湯にくぐらせるだけ。つみれだんごのように火を入れるものは、生で使います。おひたしは冷蔵庫で1週間ほど持ちますので、常備菜として食卓に彩りを添えてください。