「表紙」2013年02月14日[No.1454]号
「安心な場所」作りたい
2012年4月に新しいスタートを切った比嘉佳代さん(43)。前職は那覇市小禄にある県中小企業家同友会の事務局で次長を務めていた。長女の祥乃さん(11)を育てながら仕事を両立。41歳の時に長男の仁義(ひとよし)君(2)を出産した。仁義君を妊娠中、羊水検査をした際、ダウン症であることが判明。職場を退職し、経験を生かせる「株式会社おきなわedu学童保育あんじな」を那覇市首里に立ち上げた。障がいの有無にかかわらず子どもたちを受け入れる学童で、遊びから心を鍛えるキャリア教育に励んでいる。
親子で共に学び成長
20歳のころは那覇空港で働いていた比嘉さん。25歳で県中小企業家同友会に転職。毎日朝から晩まで働いた。持ち前の明るさと努力で次長まで昇進する。
「男性の多い職場だったので、毎日追いつけ追い越せと一生懸命でした」と笑顔。
前の職場の同僚だったフライトコーディネーターの義則さん(43)と29歳で結婚。32歳で祥乃さんが生まれ、幸せいっぱいだった。
しかし、仕事との両立に悩む日々が続く。生まれつき祥乃さんは体が弱く、2カ月に1回は風邪をこじらせ入院した。比嘉さんは仕事を休める状態ではなかったため、病院と職場を行き来する生活を余儀なくされた。病院に書類を持ち込み、看病しながら仕事をすることもあった。「祥乃が生まれる前から、『仕事とうまく両立できるだろうか』と考えていました。現実になり、毎日パニックを起こしそうなくらい大変でした」
祥乃さんが2歳になるころ、仕事と看病の疲労から体調を崩した比嘉さん。ひどい時には会社を休み、自宅で一人頭を抱えていた。
解決として、いいと思うものを見つけては実践した。心理カウンセラー、ベビーサイン、ベビーマッサージの講師の資格を取得するなど必死で模索する。しかし、最終的な解決に導いたのは、意外にも知人の一言だった。
「あの時は本当にどん底でした。そんな中、知人に『あなたが治すんだよ』と言われました。何気ない一言だったのですが、時間がたつにつれ、その言葉が染みてきました。私の考え方、物のとらえ方次第なんじゃないかと思い始めると、少しずつ楽になっていきました」と振り返る。
精神的に安定し、充実感を取り戻してきた比嘉さん。祥乃さんの体調も徐々に回復していった。
41歳で仁義君を妊娠。喜びもあったが高齢出産の不安もあったという。さまざまな検査を受けた。もしも何か障がいが分かっても産むことを前提に羊水検査を受け、仁義くんがダウン症だと分かった。
驚きを隠せなかったが、使命感や愛情もあふれてきた。「私の元に生まれてきた命を大事にしたいって気持ちが大きくなりました」と強いまなざしで話す。
無事に仁義君を出産した比嘉さん。職場復帰の準備をしている最中、迷いが生じた。役職の付いた立場で仕事と子育ての両立が可能なのか疑問を抱く。「祥乃だけの時とは状況が違うので、仕事を続けるとなると、職場と子供の両方に迷惑がかかると思いました」と苦笑い。
苦渋の選択をし、18年勤めた職場を退職。自分以外にも仕事と子育ての両立で苦しんでいる人や障がいのある子との生活に悩む人を手助けをしたいと考えた。
2012年4月、「株式会社おきなわedu学童保育あんじな」を設立。障がいの有無にかかわらず小学1〜3年の児童を預かっている。現在、登録している児童は14人。指導員は7人。代表取締役を務めながら、学童指導員として子どもたちの指導に尽力する日々だ。
「健常児と障がい児を共に遊ばせることで、両方が将来必要な心を学びます。ここで教わったものは、今後必ず生きてくると思っています」と強調した。
「あんじな」とは、「安心な場所」という意味だ。比嘉さんは保護者や児童にとって安心できる環境を作りたいと考えている。2カ月に1度。保護者会を開き、雑談方式で子育てから生活の悩みや相談まで行う。繰り返すうちに、保護者同士が子供の送り迎えなどを協力するようになっていった。
さまざまな困難を乗り越えた比嘉さん。何事もあきらめずに挑戦する姿は、キラキラと輝いている。
普天間光/写真・桜井哲也
ひが・かよ 1969年、那覇市生まれ。
首里高校を卒業後、沖縄ビジネス外語学院に入学、卒業。その後は那覇空港で働きながら沖縄女子短期大学の夜間部に通う。25歳で沖縄県中小企業家同友会に転職。29歳で結婚。夫の義則さん、長女の祥乃さん、長男の仁義くんと4人家族。義則さんは比嘉さんに対して「面倒見がよくて、頑張り屋さんです」と話した。家事は夫婦それぞれができる時にやるようにしているという。
学童保育は、共働きの家庭や母子、父子家庭の子どもたちの生活を守る施設として利用されている。学童保育に携わるために、資格は必要ではないが保育士、幼稚園教諭、小学校教諭などの資格があると望ましい。地域同士が支え合うしくみとして大事な場所だ。