「表紙」2016年11月24日[No.1648]号
「紅豚」と父と、私
折々の行事や普段の食卓になじみの豚肉。沖縄の豚は今、生産農家の努力により魅力あるブランド食材として県内外から評判を呼ぶ。喜納忍さん(34)は、「紅豚」を作り出した喜納憲政さん(64)を父に持つ畜産女子。大学卒業後、肉質の良い豚の飼育法に精魂を傾け、餌作りに家族を総動員した憲政さん。忍さんは、「ワンマン。お父さんのせいで家族は苦労しているんだ」と言いつつも、本音は父の苦労を一番理解する。「紅豚」でビジネスチャンスを創造し、忍さんはインターネット販売で市場の評価の高さを知り、あらためて父の仕事と紅豚に向き合う。
「父は研究者か、養豚職人」
「運転免許取り立てで、軽トラックにドラム缶10個ほどを載せて豚の飼料の原材料集めに母と走り回った」
高校・大学時代、同級生が部活に励んでいるころ、忍さんは憲政さんが試作する飼料用の酒かすを酒造所から回収したり、持ち込まれた賞味期限切れのパンの加工を手伝ったりしていたという。
パン、木酢液、パパイア…。憲政さんは専門書をひもとき、自ら飼料成分のバランスを計算し、餌の配合設計に終始した。「リノール酸が多い飼料を与えると、消化しきれないタンパク質は臭いのあるふんに現れる。小麦(パン)で、オレイン酸を増やし、リノール酸を減らすと脂身は白く、弾力のある締まった上質の肉となる」
人間同様、腸を整えるため乳酸菌を培養して餌に混合する。結果、ふんの臭いが和らぐ。乳の出を良くすると伝えられるパパイアにも手を出した憲政さん。忍さんら家族は父手製の„パパイアシリシリー器“で大量の餌をこしらえる羽目に。効果は得るも、原料の調達には至らなかった。
憲政さんは、こうした独自の配合飼料を与えた結果をデータとして飼料メーカーに提出し、配合設計を要望する。
「父は研究者か、職人肌」と評する忍さん。家族を巻き込んだ餌作りは、「紅豚」という美味なるブランド豚を生み出した。
養豚農家のジレンマ
憲政さんが養豚を始めたのは、22歳。大学で畑違いの商業経済学を修め、父親の養豚農場に給与制で就農した。
父親が規模を広げようとした農場を継ぎ、喜納畜産二代目となったころ、高校の同級生であった智子さんと結婚。従業員を雇い飼養頭数を増やしつつ、銘柄豚を育てるグループに所属し大手食肉販売会社へ出荷していた。
「為替相場で輸入穀物価格は不安定、豚肉の値段も影響を受ける。出荷先の食肉販売会社の統合、必要な設備投資など養豚農家の経営破綻条件は幾つもあった」
いくら品質の良い豚を育てても、生産農家に見合う利益が出ないというジレンマ、飼育する銘柄豚の生産量を上回る消費量の実態を知り、生産農家として現状打開の模索は続いた。
「紅豚」ブランドの誕生
「父は、品質の良い豚を飼育する自負で連帯する3人の同志がいました。日中の仕事を終えれば、喜納家は島袋和則さん、安次富正さんら同志と飼育を論議する場であり、さまざまな関わりの来訪者の酒席であり、常に変人の集まりの場でした」と忍さんは笑う。
やがて、憲政さんの飲み仲間の縁からブランド豚立ち上げのきっかけが生まれる。「あまりのおいしさに豚肉の概念が変わった」とは、のちに憲政さんら同志を株主にして、2003年ベンチャー企業を立ち上げた「株式会社がんじゅう」社長の桃原清一郎さんの弁である。
ブランド豚は「紅豚」と名付けられ、喜納畜産・島袋畜産・安次富畜産の同志らの農場で、生産から流通の一貫体制を構築した「トレーサビリティー」を導入している。「紅豚」販売から5年後、沖縄在来種の「アグー」を「紅豚」同様に、独自配合の飼料で飼育した「紅あぐー」を生産している。
忍さんは、桃原社長の勧めもあって2008年から7年間「ネットショップ」店長を務めた。開店当初、インターネット上で「紅豚」を周知させるため、ブロガーの試食会や懸賞サイトの活用、イベントを開催し情報の発信に努めた。そのかいあって、売上高は当初の600倍に上った。
忍さんは、豚肉イベントの縁から結婚。現在は、子育てと農場の仕事に奮闘する。「ブランド豚を作り出した喜納畜産の担い手として、広く伝える役割も果たしたい」と、今後の展開を見据える。
(伊芸久子)
プロフィール
きな けんせい1953年今帰仁村古宇利島生まれ。沖縄国際大学商学部卒業。父親が古宇利島からうるま市に移した養豚場を継ぐ。智子夫人との間に2男1女。2003年、ブランド豚の紅豚で「沖縄電力社内ベンチャーMOVE2000」の株主として「株式会社がんじゅう」設立に参画。沖縄市池原で約3000坪を有する「喜納畜産」を経営
きな しのぶ
1982年うるま市生まれ。名桜大学卒業後、実家の養豚農場に就農。3年後、畜産業で得た経験を販売に生かすとして「株式会社がんじゅう」のネットショップ「おきなわ紅豚ネットショップ」の店長を務める。現在は実家の喜納畜産の農場で「幸せな農家」という夢に向かって修業中。2児の母
写真・村山望