「島ネタCHOSA班」2011年05月12日[No.1363]号
那覇新都心は、米軍住宅の返還地だと聞きました。返還された土地がどうやって街になっていったのか、興味があります。(2011年05月12日掲載)
「新都心」は米軍返還地
(南城市、女性、20代)
今でも広大な米軍基地を抱える沖縄は、返還された場所が街になっていったところがいくつかある。北谷町のハンビー、那覇市のゆいレール赤嶺駅近辺の金城。そして、質問にある新都心。さて、返還地が今の発展した街にどうやってなっていったのか、調べていこう。
元は那覇市の7字
歴史をたどっていくと、1953年から、古島、真嘉比、安里、上之屋、天久、銘苅、安謝の7つの字が米軍によって強制収用が始まり、住んでいた人たちはふるさとから出ていくことを余儀なくされた。「ふるさと」を追い出された人たちの多くは、那覇市の寄宮が移住先となった。米軍の強制収用以前に現在の「新都心」地区に住んでいた人たちで作る那覇新都心地主協議会(現在は解散)の幹事の一人だった与儀清春さんは、当時小学校5年生。
「米軍のGMCトラックに乗って(寄宮に)行った。大きなトラックでかっこいいなあと子供ごころには思った。しかし、自分のいとこは朝学校に行って、午後帰ってきたら自分の家がなくなっていて泣いた」。こんなふうにして大事なふるさとが奪われ、そしてそこには「牧港住宅地区」が作られた。那覇市内であったが、「牧港」という名称がついたのは、浦添の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)に勤務する軍人のための住宅地だったからだ。
1972年に沖縄が日本に復帰。翌73年に日米両政府の間で牧港住宅地区の返還が合意される。87年に全面返還が実現した。
新都心の街づくりがスタートしたのは翌88年から。「独立行政法人都市再生機構」により土地区画整理事業がすすめられた。97年に那覇中環状線が開通、翌年には那覇国際高校が開校した。
新都心の区画整理事業は2005年を持って終了しているが、その後も発展しつづけ、2年後の07年には県立博物館・美術館ができ、文化の情報も発信するようになった。また12年開校予定の新しい小学校も今建築中だ。
「おもろまち」は公募
新都心は「おもろまち」としても知られるが、一般公募し「願いや希望の意味を込め、21世紀に向けて個性と調和に満ちた街」としてつけられた。
新しい街ができるにともない自治会も発足。新都心地区には「おもろまち」「安謝新都心」「「天久ピアザ」「天久」「銘苅」の5つの自治会がある。調査員は「おもろまち自治会」の大森文代自治会長に話を聞いた。
同自治会は発足して8年目。現在143世帯が加入している。大森さんが現在住んでいるところに移ってきたころは、通りには3棟しかなかった。07、08年ごろから通りも落ち着いてきたそうだ。
現在、新都心に住んでいるのは1万8千人。約214ヘクタールの中に、サンエー那覇メインプレイスなどの大型店舗、文化施設、総合公園、静かな住宅地天久地区、銘苅の古墓群など「多彩な顔」を持つのが「新都心」の魅力だろう。
市の市街地整備課の島袋正吾副参事は「住宅地と商業地がうまく整理され、新しい街として、当初の計画通り順調にいっているのではないか」と話す。
「新都心」は、そこに住んでいる人たちにとってのふるさと。良い思い出をたくさんつくってほしい。
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