「島ネタCHOSA班」2011年06月30日[No.1370]号
最近、金武町でアパートを探していて驚いたのですが、金武町は番地が大きいです。なぜでしょうか。(2011年06月30日掲載)
金武町の番地、なぜ5ケタ!?
(沖縄市・女性)
確かに。金武町役場=金武町字金武1番地を筆頭に、12、000番台を超えている。5ケタです。しかも、お隣さんと一ケタ違う番地もあったりして、けっこう複雑。4919世帯・人口11、217人(2011年4月末日現在‥同町ホームページより)の町なのに、なぜ?
不便じゃない?
まず、町役場で見せていただいた地図には、役場から反時計回りに数字が打たれている。町内の字は金武、屋嘉、伊芸の三つだが、行政区ではない”小字“による区分けだという。小字とは、地形や土地の特徴などを反映して付けられている地区の呼び名。金武区史編さん当時、418番地~551番地が充てられた「御嶽原」(ウタキバル)は、地域の神事が行われた御嶽周辺、552番地~669番地が充てられた「大川原」(ウッカガーバル)は、清水の湧き出る大川(ウッカー)近隣、1630番地~1798番地が充てられた「大苗代原」(ウフナッソバル)は一大田園地などなど、”あの辺り“と分かる日々の営みの中で生まれた呼称だ。その小字ごとに割り当てられた番地が、住居はもちろん、きれいに整理された水田や湿地帯にまで打たれている。
しかし、役場の皆さんはもとより、町内で番地の一番大きい中川区、町の中心地・金武区も訪ね、「なぜこんなに細かく番地を振る必要が?」と尋ねるも、「なんでかねー」と逆に聞かれ、「特に疑問にも不便にも感じないねー」と皆さんおっしゃる。
土地は地域みんなのもの
途方に暮れる調査員に朗報が!
「金武町の歴史や地名に詳しい方がいらっしゃいますよ」。
訪ねたのは、金武小学校校長を最後に退職し、区史編さんに関わった新里清さん、御年84歳。
「最初に番地を付けたのは戦前です。地域のみんなで土地を開墾し、十三歳以上の男女に分け与えて税金を徴収するため、所有者をはっきりさせる必要があったんですね。中川区は最も新しい開墾地ですから、番地が大きいんですよ」
新里さんによれば、十三歳以上の男女を「可働者」と呼び、それぞれに土地を割り当てたと言う。婚礼祝いに土地を贈ったり、子や孫に引き継いだりもしたそうだ。
「金武は地域意識が強くてね、字対抗陸上競技大会や綱引きなども盛んで、切磋琢磨していたわけです。若い方は薄れていますが、その名残りで小字や屋号など出自で互いを認識していますから、番地で不便はないんでしょうね」。隣近所の結束が固いため、戦後の混乱期でも所有地がはっきり認識でき、それぞれ先祖代々自分の土地に戻ることができたという。
地域共同体という意識から生まれた細かく大きな番地。そして、アイデンティティーを大切にする人たち。区史にもこうある。―金武区内の小字は実在しないが、地名は歴史の生き証人ともその土地の顔とも言われ、貴重な文化遺産である。
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