「島ネタCHOSA班」2012年07月05日[No.1423]号
ドライブが好きで北部によく出かけるのですが、北に向かえば向かうほど、セメント瓦がふかれている家が多い気がするのですが、これはなぜでしょうか? ただの気のせいでしょうか? 気になるので調べてください。(2012年07月05日掲載)
セメント瓦北部に多い?
(宜野湾市 Sさん) ふむふむ、ドライブが好き?セメント瓦が多い気がする?…なるへそ。お任せください。きっちり調べてみせましょう。
ではまず、セメント瓦って一体何? とお思いの皆さんのため、図書館にて仕入れてきた情報をちょろっとお教えしましょう。気が利くでしょう。ナゼそんな気配りができたか? ふっふっふ、それはワタクシもはっきりと分からなかったからです。
発祥は名護!?
それでは、セメント瓦とは何か?・セメントと砂を混合したものを型に流し込み、整形したのち乾燥させた瓦・県内の民家に多く用いられていた・発祥は名護市と言われている―とまぁ、おおよそこのような結果がでました…ん? んんん? 発祥は名護!? Sさん、理由はこれではないでしょうか? いや、きっとこれですよ。間違いない!確かめにまいりましょうぞ!
訪れたのは発祥の地にある名護博物館。対応していただいたのは学芸員の比嘉武則さん。
「ええ、そうです。名護から県内全域に広がったので、北部に多いのも自然なことでしょう。それに、南部に比べて、まだまだ古い家が多く残っていますからね」
やはりそうでしたか。そもそも、セメント瓦はいつごろ誕生したんでしょう?
「誕生というのは語弊がありまして、基は台湾なんです」
へぇ~台湾ですか。
「ええ。名護出身の岸本久幸さんという方が、大正時代に台湾に渡ってそこでセメント瓦と出合い、技術を持ち帰って1935年から名護で製造、販売し始めたんです。その当時、台湾は日本の統治下におかれていて、多くの日本人が移住していたんです。岸本さんもその一人で、台南刑務所で看守として働いておられたようです」
ほうほう。でも、沖縄にはもともと赤瓦があったのでは?
「実は、赤瓦は台風で吹き飛ばされてしまうことが多かったんです。それに比べて、セメント瓦はそもそもの重さもありますし、屋根にふく際に銅線で骨組みに結んで固定できるのでさらに風に強いんです。また、製造工程も焼きを入れる必要がなく簡単なのに耐久性があるということも魅力的だったんでしょうね。施工して80年近く経ってもまだ現役の家もあるぐらいですからね」
製造工程が簡単で、耐久性に優れ、さらにはふきやすいと、これは非常に優れものですねぇ。
時代とともに…
「ええ。セメント瓦が普及した要因は時代の流れもあるんです。1935年から販売されたと先ほどお話しましたが、その3年後、市街地建築法という法律が施行されます。当時、民家の屋根はカヤぶきが主流だったんですが、これを禁止したんですね。戦時下ですから、延焼を防ぐということだったんでしょう。これによって、名護市内で需要が高まっていったんです」
へぇ~、法律で禁止されたんですか。そこから一気に広がっていったんですね。
「いえ、ある程度の高まりはありましたが、それもすべて戦争で焼失しました。この沖縄戦が2つ目の需要増加の要因でもあるんです」
むむむ。2つ目ですか?
「戦後、焼失した家の建築が急務となり、耐久性に優れたセメント瓦の需要が増えました。さらに、ガリオア資金と呼ばれるアメリカ政府の占領地域救済政府資金が沖縄にも適用されたことで瓦製造所も増加し、瞬く間に県内全域に普及していったんです」
そうなんですか。戦争が大きく影響しているんですね…。最近はあまり見られなくなったのはなぜなんでしょうか?
「1965年に琉球セメントが操業開始したことでしょうね。それによってセメントが大量に流通して、RC(鉄筋コンクリート)建築の家が増えたんです。屋根に瓦をふかなくてもいいわけですから、デザインの幅も広がりますし。最盛期には十数軒あった瓦製造所は、今では県内に2軒しか残っていません。淋しいことですが、これもまた時代の流れということでしょう」
ふ~む。沖縄の瓦と言えば誰しもが思い浮かべる赤瓦に比べ、今では存在さえ珍しくなってきているセメント瓦。しかし、間違いなく戦後20~30年間の人々の暮らしを守り、沖縄を守っていたといえるのではないか? そう思う調査員でした。皆さんもそう思いませんか?