「島ネタCHOSA班」2014年07月24日[No.1528]号
与那原町に不思議な物があります。煙突のようですが、両手を広げるように木の枝が出ています。すごく不思議で、心引かれます。何の煙突でしょうか?
(那覇市 30代・女性)
与那原に不思議な煙突!?
与那原町は赤瓦生産が盛んな町。煙突は瓦工場のものか、瓦産業の歴史を証言する建造物なのかもしれませんね。行って確かめましょう。
那覇方面から県道240号を走り国道329号に合流する手前にありました! う〜ん、角度によっては両手を広げているようにも見えます。この煙突に間違いなさそうです。
道路に面して広い更地があり、雑草の中に瓦が落ちています。思った通り瓦工場の跡地ですね。更地の奥にある煙突はやはり使われていない様子。隣に家があるので聞いてみましょう。
瓦工場に隣接
隣の家の玄関には「陶芸ギャラリー」とあります。さっそく訪ねました。応じてくれたのはギャラリーと煙突の持ち主・奥原崇仁さん(72)。奥原さんは元県立芸術大学教授で陶芸家なのです。
この煙突について聞きたいのですが。
「以前あった窯の煙突です。今はギャラリー兼住宅になっているこの家は、当時の製造工場を改装したものです」
やっぱり。ところで煙突から枝が出ていますが?
「ガジュマルです。25年ほど前、自然に根をつけ、何度か切り落としましたが、また出てくるんです。当時、煙突をつぶすという話が出ていました。でも煙突が主張しているように思え、窯のシンボルとして残すことにしたんです」
実は奥原さんの亡き父・崇実さんは、首里城の赤瓦を復元した著名な瓦職人。首里城完成を見届けるように、完成した1992年に亡くなったそうです。お父さまの工場だから、煙突にも愛着があるのですね。
造っていたのは…
奥原さんの煙突への思いに納得した調査員。しかし、「瓦工場があったのは、この家の前の更地です。この煙突も瓦用だと思われていますが、違いますよ」と奥原さん。
えっ瓦工場じゃない!?
「ここは衛生陶器を造る工場でした。便器や洗面台の洗面器のことです。復帰の約5年前から3、4年間でしたね。そのころはくみ取り式便所で、今後は水洗になるだろうと考えた父が造った工場です」
そんな歴史があったとは。
「私は愛知で陶芸を勉強しました。帰ったら、父に衛生陶器を造るように言われて、試行錯誤の連続でした。県外から土を取り寄せるなどして何とか製品化し出荷しましたが、本土復帰が決まり安い製品が入ってくるので生産をやめて、窯も使われなくなりました」と振り返ります。「今でも残っていますよ」と言う奥原さんに当時の製品を見せてもらいました。
試作中や完成した洗面器、便器があります。便器には「メード イン オキナワ」の印。すごい!
外に出ると、当時焼く時に陶器を保護するために使ったサヤがありました。サヤの中に入れて、約30時間焼くそうです。「時間がかかり、大量生産できる本土企業にはかないません。でも、そういう歴史があったことは忘れてはいけないと思うのです」と話してくれました。
時代の先を見て開発されたメード イン オキナワの製品。製造を支えた煙突は、確かに私たちに主張しているのかもしれません。「ウチナーンチュよ、大志を抱け!」。そう思う調査員なのでした。