「島ネタCHOSA班」2015年3月26日[No.1562]号
最近、知人が名護市に引っ越して疑問に思ったことがあるそうです。それは久志小中学校が久志区ではなく、瀬嵩区にあることです。それも近接しているわけでもなく、距離は結構離れています。なぜでしょうか?
(那覇市久米 上原さん 60代 男性)
久志小学校が久志区にない!?
これは想定外です。那覇住まいの調査員は、近隣の所在地区名を冠した公立学校に通学したので、衝撃の事実です。
地図で確認してみると、確かに「久志」という地名はしっかりあるのに離れた場所に久志小中学校があります。早速聞き込み開始です。
王府の道路事情に秘密が
この謎を解き明かす鍵は、公的機関にあると踏んだ調査員。名護市役所を訪ねると、名護の歴史に詳しい「名護市教育委員会文化課市史編さん係」の大嶺真人さんを紹介されました。
久志小中学校が久志地区にないのは何か行政上のミスでしょうか!?
「いえいえ、このカラクリは当時の行政情報伝達のルートに関係があるんです」
当時とは琉球王朝時代のこと。王府のある首里から各地に延びる道路の移り変わりに答えがあるのだとか。
「名護市は1970年に名護町・羽地村・久志村・屋部村・屋我地村の5町村が合併して誕生しましたが、それ以前の1900年代までは、名護間切・羽地間切・久志間切の3つから成り立っていました。各間切に番所(現在の役所)があり、その番所をつなぐ形で王府の規則などを伝達する道路が敷かれていました。久志間切が新設された1673年当時、久志番所はしっかりと現在の久志区にあったわけです」
その道路はどのような間切を経由していたのでしょうか。
「東回りと西回りがあり、東回りは『西原→宜野湾→中城→越来→美里→金武→久志』とそれぞれの間切をつなぐルート。西回りは同様に『浦添→北谷→読谷→恩納→名護』とつながっていきました。本来なら、東回りでは久志間切の次は羽地間切に向かうはずなのですが、久志以北は山が険しく、いったん後戻りして現在の県道71号を使って名護間切へと横断するルートを取ったのです(図│1)」
名護番所だけが大忙し
そうすると、東西それぞれのルートが名護に終結することになりますね?
「そうなんです。それで名護番所の業務が多くなり忙しくなってしまったんです。そのため1688年に、東回りのルートを名護番所で迂回せずにそのまま羽地間切に進めるように道路整備を行ったんですね(図│2)」
なるほど、忙しすぎるので頼むからこっち来ないでくれって言われたんですね(笑)
「そうです。それが現在の県道18号の基となった道です。そうすると久志間切から羽地間切に横断する道がより北に移動することになりますよね。1720年には、より横断道に近い方に番所を置いた方が便利だろう、とのことで現在の瀬嵩区に行政機能を移したんです」
-番所敷地内の学校がゆえ
へぇ〜! でも小中学校は瀬嵩区に設置されたにもかかわらず、学校名は久志小中学校なのでしょうか。
「それは久志番所の敷地内に創設されたからです。廃藩置県後、間切が村となり、久志村を代表する学校ということで、そのまま久志小中学校の名称となったのです。ちなみに現在も、久志番所→久志村役場の名残りで『名護市役所久志支所』は瀬嵩区にありますよ」
学校の名称から、沖縄の歴史の側面を知ることができますね! ちなみに久志区にある小学校の名称は何なんでしょうか。
「久志区には久辺小があります。これは久志と辺野古の頭文字ですね。現在、久志小は久志中の敷地内に設置され、小中一貫校の公立校である「緑風学園」に改称しています。旧久志小は民間に利用されています」
何気ない疑問から、琉球王朝時代の地方行政までもが見えてきた今回の調査。沖縄の歴史をひもとけば、島ネタ調査はさらに奥が深まると思った調査員でした