「島ネタCHOSA班」2015年07月16日[No.1578]号
子どもの頃、首里城跡地にあった琉球大学の敷地でよく遊んでいたのですが、ガスボンベでできた鐘がぶら下がっていました。1950年ごろだったと思います。その鐘を突いて遊んだ記憶があります。その鐘は今どうなっているのか知りたいです。ぜひ調べてください。
ガスボンベが時鐘に!?
ガスボンベの鐘が使われていたなんて知りませんでした。質問者によると「開学の鐘」と呼ばれていたといいます。琉球大学は首里から西原町に移転しているので、鐘が残っているかどうか…。とにかく、調査を開始しましょう。
廃棄物から鐘に
琉球大学の広報室に問い合わせると、「『開学の鐘』は、大学の敷地内に保存されています」との回答。早速同大へ向かいました。設置されている場所に案内してもらうと、ありました! 茶色く錆び付いてはいますが、存在感があるガスボンベです。石碑には「1950年5月22に本学が開学した時、米軍使用済みのガスボンベをつるして時鐘(じしょう)として使用したものである」と書いてあります。
戦後の物資不足の中、廃棄物が大学で時を知らせる鐘になっていたなんて、感慨深いです。
「琉球大学創立20周年記念誌」(1970年発行)に、前琉球大学教授の中山盛茂氏が鐘の思い出を書いています。鐘は設置以来「教務部(現学生部)の事務職員に春風秋雨絶ゆることなく1957年5月21日セルフタイマーが購入されるまでハンマーでたたかれて時を告げた」とあります。
鐘を鳴らすのが遅くなり教官たちに叱られたことや図書館で火災が発生した時には「事務職員があわて、ハンマーが見つからず、石で鐘(ガスボンベ)を乱打」したこともあったそうです。
授業開始・終了の合図はもちろんのこと、緊急時にいたるまで、いろいろな場面で役割を担ってきました。数々の歴史が刻まれた鐘なんですね。
さらに鐘について調べていくと、戦後さまざまな地域でガスボンベや酸素ボンベが鐘代わりに使われていたことが分かりました。時刻などを知らせたり、告別式や災害時、緊急時などの合図にも使われていたりしたようです。
ついに、今でもホンベ鐘を使っている地域があるという情報をゲットしました。半信半疑の調査員。教えられた場所に連絡をすると「はい、使っていますよ」との返事。次の現場へ直行です。
今も響く鐘の音
訪れたのは、南風原町与那覇にある与那覇コミュニティーセンター。自治会長の砂川美知子さんに話を聞きました。建物の横には今でも告別式の案内に打ち鳴らすという鐘が吊るされています。
戦前この地区では、住民への案内は太鼓やラッパなどが使われ、ボンベの鐘になったのは戦後からだそう。錆びてはいますが、軽くたたいても、よく通る音が出ます。
告別式の案内に鐘を鳴らすのは自治会長の役目。2013年から自治会長を務める砂川さんも代々の習慣を受け継いでいます。
どんな風に鳴らすのですか?
「告別式を知らせる時は、ハンマーで鐘を「カンカンカンカン」と4回打ち鳴らし、少し間を置いてから、再度4回鳴らします。「4打を2回繰り返すことで『死に(4・2)』に掛けているんです」と砂川さん。鐘を鳴らした後は、詳細を放送で知らせるそうです。
自宅で告別式が行われる時は、焼香が始まる約15分前に「カンカンカンカンカン…」と連打を2回繰り返します。焼香が終わる15分前にも同じように鳴らすそうです。 ちょうど同センターに集まっていた、老人クラブのメンバーの人は「耳が遠いけど、この鐘の音は離れた自宅からもよく聞こえますよ」とのこと。鐘の音を聞くと、皆さん耳を澄まして、放送が流れるのを待つそうです。
今でもこの伝統が脈々と息づき、機能しているんですね。
廃棄物から道具となったボンベの鐘。それぞれの場所で大切にされている鐘を見ることができ、貴重な歴史の一部を知ることができた調査員でした。