「島ネタCHOSA班」2016年08月04日[No.1632]号
ある日、レキオ編集室に届いた1 通のメール。そこには、「ペリーの顔はめ看板を作りました。ぜひ見にきてください」というメッセージが。幕末に黒船でやってきたあのペリー提督!?調査員はさっそく現場に直行しました。
ペリーの顔はめ看板!?
メールの送り主は久保たみ子さん。本文には「那覇市山下町の地名にちなんでペリーの顔はめ看板を作りました」とだけ書かれていました。
添付されていた画像を開くと…。おおっ、確かにペリーの顔はめ看板が(写真参照)。ペリーの顔はめ看板を見るのは初めてです! 面白〜い!!
手作りで設置
看板があるのは、ゆいレール奥武山公園駅の交差点から、奥武山公園を右手に少し進んだ辺り。事前に電話で少しお話を聞いたところ、久保さんは夫の政樹さんと「カフェ・ド・ロレーヌ」というお店を営んでいるそう。
その店先を訪ねると…。看板がありました! 背景が黄色なので、けっこう目立ちます。さっそく調査員も顔をはめてみたものの、1人では撮影ができず残念な結果に…トホホ。複数人で仲良く訪れるのがよさそうですね(当たり前)。
気を取り直して、看板を作った久保さんご夫妻にお話を聞いてみましょう。
「私たちは山下町にカフェを開いて18年になりますが、この近所には、ペリー保育園、ペリー歯科クリニック、ペリー内科小児科医院、ペリー美容室など、ペリーという名のお店が多いんですよ。うちのお隣もペリーもち屋というおもち屋さんです」
へぇ〜。ペリーが幕末に那覇に寄港したのは知っていましたが…。
「ですが、山下町の町内にはペリーに関するものが何もないので、それならということで看板を手作りしたんです。顔はめ看板なら、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)で写真を広めてもらえるでしょうしね」
聞けば、政樹さんがペリーの画像をパソコン上で加工し、印刷は業者に依頼。最後に顔の部分を手作業でカットしたそうです。 「ペリーも草葉の陰で喜んでいるといると思うので、ハートマークも入れました」とお茶目に笑う政樹さん。
6月に設置したばかりとのことですが、学生や観光客に人気で、よく通りがかりに写真を撮っていくそうです。
「ペリー区」だった
ところで、山下町にペリーという名のお店が多いのはなぜでしょう?
この問いに答えていただいたのは、山下町で生まれ育ち、現在はペリー保育園の園長を務める嘉数博さんです。
「この地区は、戦後しばらく『ペリー区』と呼ばれていたんです。さらにA班からD班に分かれてたようですね」と嘉数さん。
「一般には、山下町という地名が、旧日本陸軍大将の山下奉文を想起させることを嫌い、米軍が改名させたといわれています」
山下大将といえば、大戦中「マレーの虎」として恐れられた人物ですよね。
「山下大将は、フィリピンの人々にも嫌われていたようです。戦後、英語も日本語も話せるということで、フィリピン人が那覇軍港で多く働いていたそうですが、今回、自治会の役員にあらためて話を聞いたところ、フィリピン人が変えさせたのではないかという話もあるとのことでした」
その後、1957年に元の山下町に変更されたようですが、今もお店の名にその名残が残っているのですね。
「山下町には、国内最古級とされる人骨が見つかった山下町第一洞窟遺跡もあります。また奥武山公園には、米軍上陸が迫る沖縄で住民保護に奔走した島田叡(あきら)知事の碑も昨年できましたから、ぜひ訪れてみてください」と嘉数さん。
皆さんもぜひ、ペリーの顔はめ看板で記念撮影はいかが? カフェ・ド・ロレーヌ名物のキッシュもおいしいですよ♪