「島ネタCHOSA班」2017年01月12日[No.1655]号
県内には、硫黄鳥島という活火山島がありますが、久米島町に所属していると聞き驚きました。両島の距離はかなり離れているのに、なぜでしょうか。
(60代男性)
硫黄鳥島は久米島町!?
電話で調査依頼を引き受けたものの、硫黄鳥島についてロクな知識のない調査員。まずは地図を開いてみることから始めてみました。 すると……。ええっ!? 硫黄鳥島ってこんなに北にあるの? 奄美大島の南に浮かぶ徳之島の西方にあり、久米島からの距離は約220㌔! なぜそんなに離れた島が久米島町に属しているのでしょうか?
噴火逃れ久米島へ
興味が湧いてきた調査員は、久米島町嘉手苅の久米島博物館に連絡。班長の山城勇人さんから、この疑問に対する答えが書かれた資料を送ってもらいました。
それによると……。硫黄鳥島は活火山島で、琉球王国時代には硫黄の産地として知られていたそうです。
琉球王国では、硫黄は中国への重要な朝貢品でした。そのため、慶長14(1609)年の薩摩侵入によって、与論島以北の大島諸島が薩摩藩に編入された後も、琉球王国が中国への朝貢を続けるため、硫黄鳥島は首里王府の領地として残されました。
久米島町に所属している理由については、硫黄鳥島の噴火が関わっています。
活火山島である硫黄鳥島では、江戸時代から現在まで、9回の噴火が記録されており、琉球王国時代には死傷者が出たり、島民が徳之島に避難したこともあったようです。
明治36(1903)年4月にも硫黄坑が爆発。東京から専門家が派遣され、詳しい調査が行われた結果、久米島への集団移住が促され、同年10月、島民も同意。翌年2月にかけて、当時の島民約690人の久米島への移住が完了しました。その後、硫黄採掘の再開により再入植した人々もいましたが、1959(昭和34)年の噴火を機に、再び大噴火の恐れがあるとして全島民が島を離れ、現在では無人島となっています。
移住先集落に鳥島の名
この時、久米島での移住地として選ばれたのが、具志川間切(現久米島町)仲泊。移住者のため、アダンやソテツの茂る原野を、間切内の15歳以上の男子全員が3日間無償で整地にあたったそう。農業に多忙な時期であったにもかかわらず、移住を歓迎するため積極的に工事に協力したとの記録が残っています。うーん、いい話です。
村は道路によって碁盤目状に区画整理されて番地が付けられ、島民たちは硫黄鳥島の自分の番地と同じ屋敷に移住したとのこと。移住がきわめて合理的・計画的に行われたことに驚かされます。
近代的に整備された字鳥島の集落は、当時の沖縄県下でも屈指の立派さだと評価され、活火山島ならではの温泉に親しんでいた島民により、久米島でもいち早く風呂場が設置されたそう。
硫黄鳥島の島民が移住した集落は、字鳥島と呼ばれ、今でも、ほぼ当時のままで集落の形が残っています。
現在の字鳥島の区長、仲宗根弘之さんに電話で話を聞くと、「現在も、住民はほとんどが硫黄鳥島からの移住者の子孫ですよ」と教えてくれました。ちなみに、字鳥島の人々は、硫黄鳥島のことは「ムトゥイ(元鳥島)」と呼んでいるのだとか。
「鳥島集落では、移住が完了した2月11日を移住記念日として、毎年記念行事を行っています。移住の際に硫黄鳥島の7つの御嶽から運んだ石を納めた『七嶽神社』に参拝した後、公民館に移動して余興で盛り上がります。そのほか、旧暦5月4日に鳥島漁港で行われるハーリーも盛大ですよ」
硫黄鳥島と久米島のつながりを知り、スッキリの調査員。いつかきっと、鳥島集落にも行ってみたいと思います!