「表紙」2011年12月01日[No.1392]号
教室の幅いっぱいに張られた絹地に、色とりどりの息吹が描き込まれている。県立首里高校で、伝統工芸を学ぶ染織デザイン科は、染めと織りに分かれて課題に取り組む。染めを選択した3年生は“世界に一つしかない紅型”を制作中。植物をモチーフにした古典柄から、みやびやかで大胆なデザインまで、個性が布の上で躍る。この首里の地で光り輝き、脈々と続く琉球の技を受け継ぐ次世代の生徒たちは、どんな思いで課題に向き合っているのだろう。
修錬重ね、妥協せず
3年生の紅型作りは、デザインした型彫りから始まり、のり置き、彩色とさまざまな工程を経て作り上げられる。ひと口に「彩色」と言っても、顔料の既存の発色では妥協しない生徒たち。自身のイメージに添った複雑な色を調合することから始まる、気の長い作業が続く。箱いっぱいに立てられたさまざまな大きさ・形状の筆が、その工程の複雑さを物語る。
「まずはデザインを生み出すのが大変でした」
入学前から絵を描くことが好きだった、と言う生徒でもそう振り返る。
「絵の上手下手ではなくて、紅型はまったく違う特別なもの。技術だけでもだめだと思う。勉強すればするほど奥が深いです」
その言葉通り、ほとばしる感性をどう表現するかが第一関門。基本は同じデザインを繰り返し生地に置いていくのだが、それが反物いっぱいに広がった時、着物にしつらえて立体的になった時、どう見えるか。それらを想像、計算しながら、構図やモチーフの組み合わせ、色使いに頭を悩ませた。それを乗り越えたからこそ、筆を手にした生徒たちの表情は明るい。
「先生、大変、来て!」
実習の中盤、一人の生徒から悲鳴が上がった。鉛筆で突いたほどだが、カビらしきものを見つけたからだ。「作品を離して!」―教室全体に緊張が走る。のりや顔料が乾燥してひび割れるのを防ぐため、のり置きをしてからは夏場もクーラーは入れられない。半面、天然の米ぬかなどから作ったのりを使用しているため、カビや虫などにも細心の注意を払う。放課後や休日なども、ほぼ毎日作品と向き合っているにもかかわらず、繊細な作品作りの過程で油断は許されないのだ。
対処が落ち着き、また黙々と作業を進める。一人、ひと作品。自力で進むしかない作業。「この色、こんな感じでどうかなー?」「あ、さっきより良いんじゃない」―悩んだり、焦ったり、迷うこともある。そんな時、同じクラスで3年間を過ごした仲間だからこそ、互いの気持ちを察してさりげなく声掛けをする。不思議な一体感が感じられた。
◇◇◇
生徒たちの間を縫うように作業を見て回る担当教諭は、言葉は多くないが、生徒いわく「とっても厳しい」。「何十回ダメ出しされたか分からないぐらい…」と照れ笑いする生徒のかたわらに立ち、短く的確なひと言で作業をうながす。「首里の伝統でもあり、首里高校の伝統でもありますから。地域で作品展をさせてもらったり、注目され、みなさんに楽しみにしていただいていることも、生徒たちの励みになっています」と語る。
「(中学で)進路を考え始めてからずっと、首里高校はあこがれでした」と語る生徒は、家族が古典芸能に親しむ姿を見て、紅型に興味を持ったと言う。一方で、「正直、紅型なんてダサいと思ってました」と話し始めた生徒の言葉に、驚いて顔を見ると、恥ずかしそうな顔をしている。「そう思っていたことが、今では信じられないです」。心境が変化したのはなぜ? と問うと、「こんなに大変な作業があって、一つの物を作るだけでもすごいのに、その技術を残してくれた人たちって大変だっただろうなって。今、私が紅型作りができるのは、奇跡って言うか」と、背筋を伸ばしてストレートな気持ちをつづった。
伝統の技を現在へ。そして未来へ。同校の取り組みがそのバトンの一端を担っている。
島 知子/写真・國吉和夫
那覇市。前身は琉球王府創立の国学。1880年首里中学校として沖縄における高等学校普通教育の端緒を開く。1911年県立第一中学校、終戦を経て、1946年首里高校、1972年県立首里高校へ。1958年に設置された工芸課程が染織科を経て1973年現在の染織デザイン科へ。普通科と合わせて生徒数1,313人(男子461人、女子852人)。