「表紙」2012年02月02日[No.1401]号
東京に本社を置く大手電機企業の代理店での営業職に見切りを付け、約3年前に帰郷。地道で自然と生き物を相手にする厳しい世界へ飛び込んだ玉城康智さん(34歳)。2011年10月から単身、サヤインゲン作りを始めた。現在、最盛期を迎え、一日の休日もなく収穫に追われる。初めて出荷した作物を手にした玉城さんは「見ること、やることすべて勉強です。今後も農業で生計を立てていきたい」と力強い言葉と決意が返ってきた。周囲に支えられ、ゼロから一念奮起して取り組んだ「1年生農家」は新たな夢に向かっての挑戦が始まったばかり。
誇り胸に、可能性広げる
羽地内海に浮かぶ名護市の屋我地島。島内にはサトウキビ畑やパイナップル畑、古い集落が点在する静かな農村だ。集落の中心地域から少し離れた丘陵地を開拓した平地に国の補助事業であるビニールハウスが連なる。その一角、3棟のハウス(1206平方メートル)が玉城さんの仕事場だ。
「東京での仕事は順調でうまくいっていた。しかし早朝出勤の連続で、帰りはいつも終電に間に合わせる日々。仕事漬けの毎日だった」と、当時を振り返る。
玉城さんは「このまま仕事を続けては体を壊すかも」という不安から、5年間勤めた会社を2008年に退職。帰郷後、しばらくは飲食店で働いていたが、国家公務員を定年退職して農業を始めた父や転職して農業に従事していた兄の収穫を手伝うようになった。
その後、2年半ぐらいサヤインゲンやゴーヤー、パパイヤづくりを間近にみて勉強してきた。愛情を注いだ分、成長していく農業の魅力に取りつかれていった。昨年10月、父や兄らの助言を受けて独立した。
「期待や希望よりも不安の方が大きかった」と話す玉城さん。農業の基本である土づくりから一人ですべて行った。「分からない事ばかりで北部農林水産振興センターやJAの営農指導員らを頼りに、疑問をききまくった。これほど人と真剣に話し、勉強したことはなかった」と当時の苦しい胸の内を明かしてくれた。
サヤインゲンは発芽から60日ぐらいで収穫できる。その間の栽培管理が作物の生育状況、品質を左右する。
土壌の状態や光の当たり具合、水管理など気の休まる時はなかったと、話す玉城さん。初めて収穫し、出荷。その代金が口座に振り込まれた時には「うれしさ、感動で体が震えた」と笑顔をみせた。
昨年12月から続く天候はこの10年で最低の日照不足だといわれている。
玉城さんは「日照不足も作物の成長や品質に大きな要因となる」と顔をくもらせる。病気や生育不良はないか、ハウス内のサヤインゲン一本一本の葉、茎、根を確認していく地道な作業が何日も続く。
訪れた日は数週間ぶりの晴天。収穫期と重なり朝早くからハウスの中で、作物の生育状況を観察する。
丹精込めて育てたサヤインゲンはやんばるの自然のめぐみをうけ、まっすぐ伸び瑞々しく新鮮そのもの。一本もぎとり、口に入れると土の香りと甘みが広がる。
「収穫時期を逃すと、A品がB品へと価値が下がる。そうなると収入が減る。また、新鮮なうちに消費者に届け、おいしく食べてほしい」と玉城さん。収穫が始まった昨年末から1日の休日もなく働く。
畑での収穫作業を終え、自宅に帰ると選別、箱詰め作業が待っている。「人に頼むとその分経費がかかります。まだ収入が少ないのですべて自分でやらないと」と午後10時過ぎまで作業が続くことも。
玉城さんは「サラリーマン時代と比べて安定した収入がありません。しかし、気持ちはいまが充実して楽しい。まだまだ自信はありませんが、農業に誇りを持ち農家として生きていきたい」とはにかんだ。
池原雅史/写真・國吉和夫
1977年名護市生まれ。地元の普通高校を卒業後、那覇市内にある公務員受験専門学校に進学。20歳で上京。都内にある大手電機会社の代理店で営業・見積担当して10年働く。2008年帰郷。その後、飲食店勤務を経て父や兄が作付したパパイヤやサヤインゲン、ゴーヤーの生産・収穫を手伝う。2011年10月から父の畑でサヤインゲンの生産を始める。
インゲンの野菜炒
インゲンサラダ
インゲン天ぷら
母である清子さんのおすすめ3品。ビタミンBやカロテン、食物繊維が多く含まれている。非常に栄養価の高い緑黄色野菜。さまざまな料理の主役、わき役にもなる素材。サラダは塩を入れた水を沸騰させ、30秒ほど湯通しする。茹ですぎず食感を残すことが大切です。