「表紙」2012年05月03日[No.1414]号
おいしいピーマンを食卓に―。南城市内のビニールハウスでピーマンを生産する名嘉真朝仁さん(37)。約2300平方㍍
(約700坪)の畑を一人で管理する。28歳で会社員から農業の道へ転身。農家での研修後、5年前、独立してピーマンの栽培を始めた。「経験が浅い自分を助けてくれるのは土。土が元気だとピーマンも病気しない」と土作りに力を入れる。たっぷり堆肥が入った土で育てた有機栽培のピーマンは苦みがなく、甘い。ピーマンが嫌いな子どもからも「おじさんのピーマンはおいしい」と好評だ。
周囲の助けを力に
那覇市出身の名嘉真さん。高校卒業後、東京でトラックの運転手を務めた。26歳で帰郷し、空調設備の会社に勤務。会社勤めもそれなりに楽しかったが、何となく合わない気がしていた。
将来について迷い、幼少から「おじさん」と慕っていた真志喜朝進さんに相談した。実家近くに住んでいた真志喜さんは、タクシー運転手から田芋農家に転職。自分の子どもたちと一緒に名嘉真さんをよく畑に連れて行ってくれた。
「農業をやらないか」。真志喜さんからの一声だった。
当初、農業をやる気は全くなかった。しかし、実家で庭の手入れをしていたので、土いじりに抵抗はなかった。真志喜さんの畑での楽しい記憶もあった。次第に心が傾いていった。
28歳の頃、働きながら県の就農サポート講座を受講。半年間、週に1回、名護市の県立農業大学校へ通った。講座終了後、農家での研修が決まり、退職。1年10カ月学んだ研修先では豆やゴーヤーなどさまざまな野菜を収穫。農業の楽しさを教えてもらった。
2件目の研修先でピーマンを作った。ピーマンは11月に苗を植えると収穫が終わるまでの約8カ月間、植え替えがない。「ピーマンなら一人でできる」と自信がついた。
農家で研修しながら肥料を販売する大城有機肥料に足を運ぶようになり、同社が管理する土地とビニールハウスを貸してもらえることになった。また、収穫後に一括して引き取ってくれる業者もみつかった。「土地も金も経験もない自分が『農業をやりたい』と思った時にハウスも借りられた。運が良かった」
同社から「4年やってダメならあきらめなさい」と言われて始めたピーマン栽培。昨年は収穫期を襲った台風の影響で、大きな被害を受けた。自然の厳しさを痛感しながら今年、無事に5回目の収穫期を迎えた。
「たくさん収穫できるとうれしい」と笑顔をみせる名嘉真さん。心残りは、農業へ導き、さまざまなアドバイスをしてくれた真志喜さんが畑を見る前に66歳で亡くなったことだ。「おじさんがいなければ、農業をやっていなかった。一度は畑を見せたかった」と残念そうに話す。
繁忙期は一日約300―400㌕を収穫。母のミヨ子さん(65)や義父の上地安清さん(64)も収穫を手伝う。土作りやハウスのビニール換えなどは大城有機肥料が協力。「一人で管理はしているが、農業は一人の力ではできない。みんなに助けられている」と感謝の気持ちを大切にしている。
子どもたちの苦手な野菜の代表ともいえるピーマンだが、土にこだわり、化学肥料を使わない名嘉真さん。親せきの子どもたちから「甘くておいしい」と言われるのがうれしい。
今後は畑を約1650平方㍍(約500坪)広げる予定だ。「毎年、安定して出荷できるよう、試行錯誤しながら頑張りたい」とピーマン一筋の名嘉真さん。子どもたちから愛されるピーマンを作り続ける。
豊浜由紀子/写真・國吉和夫
なかま ちょうじん 1974年生まれ、那覇市出身。県立首里東高校卒業後、浪人生活を経て21歳で東京へ。トラック運送会社に5年半勤務する。26歳の頃、妻と2人の子どもと共に沖縄に戻る。空調設備の会社に勤務しながら、28歳で農業の基礎知識や技術を学ぶ県の就農サポート講座を受講。2農家での研修を経て、5年前、独立。2カ所の畑約2300平方・でピーマンを栽培する。さらなる安定供給を目指し、畑を広げる予定だ。
ピーマンの三色丼
赤ピーマンとベーコンのキッシュ
ピーマンの肉詰め
名嘉真さんの妻・聖香さん(37)はピーマンを使ったレシピを工夫しています。「三色丼」は、ごま油でぱっと炒めたピーマンにみりん、しょう油、砂糖で味を付け、ゴマをまぶして完成。ピーマンはキッシュやピザの具などいろいろな料理に使えます。
甘みがあるピーマンは、切ってしょう油とかつお節をかけた「刺し身」でもおいしくいただけます。