「表紙」2012年07月19日[No.1425]号
沖縄市倉敷ダム近く、仲宗根さん一家が営む登川園芸は、観葉植物農家として全国に知られる。昨年、初代である父・正一さん(57)から、新設する野菜部門を任せたいと言われ、約10年ぶりに帰郷した仲宗根工(たくみ)さん。
港湾の公共工事に携わる船乗りだった彼が、家業拡大のため転身したきっかけは、東日本大震災だった。
「これからは父を手本に、全力で農業に賭けたい」。新たに設立した「うりずんファーム」。
広大なハウスで、常時20種以上を育てる中でも力を入れるパプリカを見つめる瞳は真剣だ。
多品種育てる楽しさ難しさ
「小さいころから手伝わされているから、農業はやりたくなかった。だから、海の仕事を目指したんです」。中学卒業後、沖縄海員学校を経て、18歳で兵庫県の海技大学校へ。全国各地の港湾内の大規模公共事業に関わる海洋土木員として、20歳から海の上にいた。
転機は突然訪れた。
2011年3月11日、青森県八戸市沖で作業中に、東日本大震災に遭った。「ものすごい縦揺れで、津波の情報も入って。別の船で避難しろと言われたんですけど、船に積んだボイラーは、放っておくと爆発するしかない。船には、電気も水も食料もあったので、リーダーと共にとどまりました」。その日は、地域の小学生が見学のために乗船していた。動揺する子どもたちを前に、努めて冷静に対応したものの、「津波で制御不能になった船が、衝突ギリギリまで、僕らの船に次から次に近寄ってくる。最悪の事態を避けるため必死でした。陸上が真っ暗になって、何も見えなかったことは覚えていますけど」。
沖縄では、父・正一さんがいち早く今後の展開を思案していた。
「観葉植物は、ある意味ぜいたく品。自粛ムードの中で、確実に需要が減ると考えた父は、日々の食卓に上る野菜を始めようと。20歳から農業をしている父にとっても、大きな決断だったと思います」。
すでに経験を積んでいる兄と母に観葉植物を任せ、父と二人三脚、野菜農家として再出発を決意。昨年10月、約10年ぶりに帰郷した。
登川園芸の野菜部門「うりずんファーム」。チシャやわさび菜などの葉物から、シシトウ、シマトウガラシなどのナス科、キュウリ、モウイなどのウリ科など、幅広く多品種を手がける。多品種栽培のため、病気や害虫も”多品種“。細やかに対応するため、従業員が休みの土・日も、ハウスで過ごす。
「何でも作ってみたい。いろいろ提供して、何が売れるのか、どの時期にどんなニーズがあるのか、試行錯誤です。その中でも僕は、パプリカが合うなーと思って力を入れています。甘くて、肉厚で、おいしい。料理も好きなので、自分でもしょっちゅう食べています」と、満面の笑み。パプリカを前にすると、少年のような表情で語る。
「黄色のパプリカは、熟すにつれ、緑から黄色に変わります。赤色のパプリカは、緑からいったん黒っぽくなってから鮮やかな赤に変化します。これもきれいでしょう、あ、これもきれいだなー」。
これら、手塩にかけた野菜は、平日も買い物客でにぎわう沖縄市のちゃんぷるー市場に、うりずんファームの名で毎日卸している。
「葉物は、午前中の涼しい時間に収穫しないと元気なまま出せません。売り場にも足を運んで、品薄になったら追加するなど、気を配ります。それも楽しいんですよ」。
畑の近くに直売所がある利点を生かしつつも、甘えることなく、次の展開を模索する。「今後は、基幹となる野菜を確立して、大手スーパーなどへある程度まとまった量を出荷したい。地域の皆さんには、たくさんの種類も必要だし、いつ売り場に行っても買える地元の野菜も必要だと思うから」。
傍らには、目標とする憧れの父がいる。2代目の重圧は、まだ感じていない。夢に向かって歩み始めたばかりなのだから。
島 知子/写真・島袋常貴
兄、妹と3人きょうだい。沖縄市立美里中学校、国立沖縄海員学校(うるま市)卒業後、海技大学校(兵庫県)で船員としての高度な学術・技能を学ぶ。海上土木員として港湾工事中に東日本大震災に遭い、家業の方針転換もあり、昨年10月に帰郷し、野菜農家として再出発した。「うりずんファーム」を設立し、チャレンジ精神旺盛な父の気概を引き継ぎ、柔軟な発想で、日々挑戦し続けている。
パプリカの豚肉巻き
パプリカの南蛮漬け
パプリカの冷製スープ
肉厚で甘みのあるパプリカは生でもいただけるので、肉巻きと南蛮漬けは、あまり火を入れず、シャキシャキとした食感と自慢の甘みを楽しんで。この時期にぴったりの冷製スープは、パプリカ、タマネギ、ジャガイモなどたっぷりの野菜に生クリームの風味が良く合います。