「表紙」2012年07月26日[No.1426]号
患者の心 サポート
浦添市にある浦添総合病院に勤めて8年。今年7月から新たに主任としてスタートした石川千晶さん(31)。24歳の時に出身地である東京を離れ、大好きだった沖縄に移り住む。現在3歳と5歳の子どもを育てながら仕事に打ち込んでいる。忙しいイメージが強い看護師。小さい子どもを抱えながら、どのように両立しているのか。その背景には、夫の正隆さん(32)や周りの人からの協力があった。石川さんは14歳の頃、父の死をきっかけに看護師を目指す。夢を追いかけ、一生懸命勉強した。夢をかなえた今、目まぐるしい毎日に、やりがいを感じている。
父の死で夢芽生え
看護師は日々「命」と向き合っている。毎朝、申し送りという同じ病棟を担当している看護師が集まり、一日のスケジュールや患者の状態を確認し合う。毎日患者と接し、体調の変化などを知っているのは看護師だ。ミスは許されない。そのプレッシャーは相当なもので、疲労がたまり、辞めていく人も少なくない。
「お医者さんは患者さんの病気を視点に考えます。私たち看護師の役割は、患者さんの心、患者さんの家族など、すべてを含めてサポートすることです」と強調した。
患者によっても、対応の仕方はさまざまだ。病名が違えば性格も違う。それぞれの患者によって目標がある。看護師は、その目標に向かって歩幅を合わせ、共に歩く。不安と戦う患者のパートナーのような存在でなければならない。
「患者さんの思いを聞いてあげられるのは、私たち看護師です。いろんな患者さんがいて、難しく感じることもあります。だけど、同時にやりがいも感じます」と語った。大変さを感じながらも、石川さんの仕事への情熱は熱い。話す顔も、イキイキとしている。その理由は、石川さんの過去にあった。
石川さんは14歳の頃に父を癌で亡くした。大好きだった父の病は、気づいた時にはすでに遅く、治す術がなかった。石川さんは、当時何もできなかった自分に、悔しさを覚えた。
「私は父のことを、ただ見ていることしかできませんでした。もしあの時私に知識があったら、もっと早く病気を見つけられたかもしれない。父の看病も何をしたらいいか分からず、無力感でいっぱいでした」と振り返る。
今後、家族に何かあった時のことを考え、看護師になる夢が芽生えた石川さん。高校を卒業後、東京の日本大学看護専門学校に入学。3年間、必死で勉強した。「専門学校では、人生で一番勉強したかも」と苦笑する。
卒業後は、日本大学板橋病院に就職。3年間働いた。沖縄の浦添総合病院に勤務した理由は、シンプルに沖縄が好きだったからだそう。初めは2年程住んでみたいと思っていた。知人の紹介で正隆さんと出会い、結婚して永住することになるとは、想像もしていなかった。石川さんは、「夫は、とても理解のある人です。私のことも、子どものこともよく考えてくれています」と話す。
結婚当初は、飲食店で働いていた正隆さん。二人の子どもに恵まれ、夫婦共働きでうまくやっていくために仕事を変えた。土日休みの仕事に転職したのだ。現在は保険会社の営業を務める。そのおかげで、保育園への送り迎えを分担するだけでなく、休日も家族でゆっくり出掛けることが増えた。「週に一日でも家族そろって出掛けたいって言ってくれたんです。私が安心して仕事ができるのは、夫がいるからです」と笑顔で語った。
石川さんの働く職場は、子育て支援が充実している。子どもが3歳以下の場合は夜勤のシフトに加わらない選択肢があり、働く時間を通常より短縮することも可能。また、子どもが熱を出し、保育園から迎えて職場内の小児デイケアで預かってもらったこともあった。周りの人の理解と配慮に助けられ、より一層仕事に取り組むことができる。子育てとの両立も実現可能のものとなった。
「仕事と子育ては、一人ではとても大変です。でも、夫と半分こにすると、両方を楽しめることが分かりました」
明るく笑う石川さん。これからも前を見つめて、輝くママとして歩いていく。
普天間光/写真・桜井哲也
日本鶴ヶ丘高等学校を卒業後、日本大学看護専門学校へ入学。3年間、数々の試験をクリアし、看護のノウハウを学んだ。当時は、ほとんど眠る暇もなく、勉強に励んだ。夫の正隆さんからは、「看護師の妻がいることは、家族にとってとても安心感があります。大変なこともあると思いますが、僕もできる限りのサポートをしたい」と語る。家族を思う気持ちは、夫婦共に強くあるようだ。
看護師になるためには、看護大学や看護専門学校などで3年、又は4年勉強し、国家資格を取得する。患者と接する中で、ちょっとした変化に気づき、正確かつ瞬時に対応することが大切だ。患者や家族の不安な気持ちを悟り、和らげてあげることも、看護師の大事な仕事である。