「表紙」2012年07月27日[No.1427]号
夏を告げる喜び
県民の誰もが認める「スイカの名産地」。今帰仁村に豊里友作さん(28)の畑はある。丸い形にギザギザしま模様。真っ赤な果肉にかじりつくと口中に溢れ出す果汁、さっぱりした甘さとさわやかな香りで夏の到来を知らせてくれるスイカ。「夏と言えばやっぱりスイカです。一年を通して栽培・収穫はしていますけど、この時期になると季節を知らせるものを作っているんだなぁって実感できるので、一番楽しい時期ですね」と温かな笑顔で話してくれた。
農家の覚悟をもって
農家に生まれた豊里さん。だからこそ農業が大嫌いだったという。
「姉が、毎日、友達と遊ぶこともできずに手伝わされているのを見て、子ども心に、大変だなぁって思って育ちました」
小さいうちは他人ごとで良かったが、成長すれば彼にもお鉢が回ってくる。
「必死で逃げていました。まぁ、それが許されたのも、自分はワシンナグワァ~(親が歳をとってからの子ども)なので甘やかされていたからだと思います」
スキあらば逃げる。そんな毎日を送ってきたのだと豊里さんは笑う。地元の北山高校を卒業後、沖縄国際大学へ入学。専攻は経済学だった。
「サラリーマンにあこがれていたんです。びしっとスーツを着こなしたくて(笑)」
そんな彼に転機が訪れる。大学4年生で、母方の祖父が亡くなったことだった。
「祖父は那覇に住んでいたので、今帰仁から父と叔父を毎日、車で送迎していたんです。父と叔父もやっぱり、自分の生き方について考えたんでしょうね。行き帰りの車の中で、二人が『自分は畑で死にたい』って話していて、そこまで思える仕事とは考えもしなかったなぁって思いましたね。それから、気づけば畑に出ていました」
就職活動が上手く行かず悩んでいた時期で、タイミングがあっただけだと言う豊里さん。
だが、毎日、夜明けとともに起床し、太陽に焼かれ、中腰のまま芽引きに追肥にと管理作業が休みなく続く。そしてどんなに苦労しようと、天候によってはすべて水泡に帰すこともある。そんな日々を6年間続けてきた彼を見れば、その言葉はただの照れ隠しだということが分かる。彼もまた、父と同じように「畑で死ぬ」ことを選んだのだ。そして、その覚悟は、今では年間1万2000玉のスイカとなって私たちのもとへと届けられている。
残念ながら、行く末は輝かしいことばかりではない。
「今はまだ、スイカの名産地というイメージを持ってもらっています。でも今後はどうなるか正直分からないです。父の代にはスイカ生産部会のメンバーが130人以上いたんですけど、今では40人程度です。さらに、若手と言えるような年齢はもう、僕しかいないんですよ」
その状況を打破するためにはブランド力の強化が必要だと豊里さんは言う。
「品質を統一できないか? って考えています。これはおいしいけどこれはちょっとって感じのばらつきがあると、ブランド力はどうしても低下します。高水準であることが大前提ですけど、誰が作っても同じおいしさが重要なんです。そうすることで、本当の意味で今帰仁産の価値が高まると僕は思うんです」
価値を高めることがひいては今帰仁村の活性化や、若手の育成につながっていくはずだと力強く話す豊里さん。「名産地の継承」という大きく重い荷物が彼の両肩にはかかっているのだ。だが、たとえどんなに重くても彼はそれを引き受けて前進するだろう。なぜなら、とっくの昔に覚悟を決めているのだから。
佐野真慈/写真・佐野真慈
今帰仁中学校から北山高校へと進学し、サラリーマンを目指して沖縄国際大学経済学科に入学。だが、卒業を間近に控え、人生の方向を転換。父の後を継いで農家となる。現在では約1500坪の畑を管理し、年3回の収穫で約1万2000玉のスイカを出荷するに至る。若手農家として名産地・今帰仁村の継承と復興を担い、ブランド力の強化をめざし努力を重ねる日々を送る。
スイカの漬物
スイカゼリー
白い部分は漬物に。皮をむいたスイカと氷砂糖を1対0.5の割合でリンゴ酢に半日漬けるだけ! パリパリした食感がクセになります♪ ミキサーにかけたスイカをゼリーに。隠し味に梅干しを。さっぱりしてほのかにしょっぱい。夏にピッタリです♪