「表紙」2012年09月20日[No.1434]号
いつも笑顔で
50年も続く名護市運天原にある花城養鶏場の3代目を務める花城伸治さん(31)。今年で6年目になる花城さんは、幼い頃からスポーツ万能で、体育教諭を目指し勉強していた。そんな中、父が倒れ、帰らぬ人となった。花城さんは長男として、祖父から受け継がれた養鶏場を、父の代わりに引き継ぐ決心をした。約3万羽の鶏を飼育する大変さとやりがいを胸に、養鶏という新たな夢に向かって試行錯誤をしながら奮闘している。父としても新米。忙しくも充実した日々を過ごしている。いつでも大好きな自分でいるために、前向きに楽しむことを忘れない。
周囲の支えに感謝
「鶏って、とっても面白い生き物なんですよ」と目を輝かせて話す花城さん。話をする時、大きなジェスチャーをしながら、楽しそうに笑うのが印象的だ。
養鶏の仕事は、主に定期的な掃除と餌やりだ。単純な作業のようだが、生きの良いおいしい卵を産んでもらうためには、環境作りが重要視される。
餌やりにも工夫が必要だ。体調を管理しながらも、採算が合うように餌の量を調節する。
「鶏も人間と同じで、食事にはバランスが必要です。また、ヒナは体調を崩しやすいので、ワクチンを打ったり毎日のケアが欠かせません。しかし、成鳥になると体もしっかりしてきますし、免疫力が強くなるので、そんなに手がかからないんです。ね? 人間の子供みたいでしょ?」
花城さんは2年前に結婚。昨年には長女の怜ちゃんも産まれ、父としてもスタートしたばかりだ。鶏たちを見つめる視線も、わが子を思うように優しい。
名護で生まれ育った花城さんは、大好きなスポーツの道を究めたいと、県立那覇西高校に入学した。陸上部に所属し、走り高跳びの選手として活躍した。県の高校総体で優勝。高校時代に更新した県記録は、未だ破られていない。全国でも活躍し、毎日が楽しくて、夢中だったという。高校を卒業後、福岡大学へ進学し、体育の先生になるための教員免許を取得した。
父、毅さん(享年53歳)が病気で倒れたのは、花城さんが大学を卒業し、スポーツインストラクターとして働いている頃だ。脳梗塞だった。家族がショックを隠しきれない中で、花城さんは覚悟を決めていた。教師になることをやめ、養鶏場で働くことを決意した。
「不思議なんです。ずっとスポーツをしてきたし、体を動かすのも大好きだったから、体育の先生になりたいと思っていたんです。でも父が亡くなり、養鶏をやると決めたとき、何の葛藤もなく、抵抗もなかった。僕は長男なので、小さい頃から『俺が継ぐんだろうな』って思っていたのかもしれません」。笑顔で話す瞳の奥に、何か深い思いを抱いているように見えた。
養鶏を始めて1、2年の間は、母と試行錯誤をしながらやっていたという。父からの引き継ぎもできず、養鶏場の電気の配線がどこにつながっているのかも分からなかった。
「うろうろしながら、『これはこうなっているんだな』と実際に目で見て手で触って、といった感じでした」と苦笑い。
そして、花城さんを支えたのは、他でもなく、周りの養鶏場の人だ。地元の人も話を聞きつけ、様子を見に来たりアドバイスをしてくれた。スポーツマンの花城さんには、とても驚く光景だった。
「同じ職種の人が、こんなに親切に教えに来てくれるなんて、びっくりしました。僕はライバル精神だったり、競って高め合う場所にいたせいか、とてもビックリしました。本当に感動しました」と強調した。
「より良い卵を作りたい」と語る花城さん。彼の新しいハードルはとても高い。しかし、目標に向かってステップを踏むその姿は、可能性に満ちている。
島 知子/写真・桜井哲也
はなしろ しんじ 1981年生まれ。
屋我地小・中学校を卒業後、名護を離れ、那覇西高校に入学した。福岡大学に進学し、陸上部に所属。走り高跳びの選手として活躍し、現在も県内の大会に参加している。養鶏場で働く前は、洋服屋やスポーツジムでアルバイトをしていた。大学で教員免許を取得したことで、名桜大学で非常勤講師をしたこともあり、「いい経験でした」と語る。養鶏場を継ぎ、好きなスポーツも続けている、妥協を知らない前向きな性格だ。
茶わん蒸し
キッシュ
黄身のみそ漬け
茶わん蒸しには、パプリカとオクラが入っています。キッシュは、ナーベーラーとしめじ、ポークを合わせた食欲をそそる一品。黄身のみそ漬けは、おつまみに最適♪
妻、奈津子さんは「卵をできるだけ野菜と一緒に食べられるようにしています」と話す。栄養のバランスを考えた、思いやり料理です。