沖縄の日刊新聞「琉球新報」の副読紙「週刊レキオ」沖縄のローカル情報満載。



[No.1660]

  • (金)

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「表紙」2017年02月16日[No.1660]号

父娘日和

父娘日和 45


社団法人 在亜沖縄県人連合会 顧問 屋宜 宣太郎さん
山内 初美さん

いつも沖縄思って働いた

 金武町屋嘉の高台。沖合の伊計島を望む住宅で屋宜宣太郎さん(78)は今、アルゼンチンから一時帰国して、静かな余生を過ごしている。1960年、宣太郎さんは父の呼び寄せで妻のヨシ子さんと生後4カ月だった長女初美さん(57)を連れて南米のボリビアへ移住した。4年後、新天地を求めアルゼンチンへ。花卉(かき)栽培から靴販売、日本製自動車販売、製材事業で成功を収めた陰で「父にはもうけて沖縄に帰る目標があった」と、初美さんは宣太郎さんの胸の内を語る。



アルゼンチンに新天地求め

 1954年、初めて沖縄から南米ボリビアへ移民団が渡った。それから6年後、屋宜宣太郎さん一家は父の呼び寄せで第9次移民団として渡航した。宣太郎さんは22歳、妻のヨシ子さんは19歳で生後4カ月の初美さんを抱いていた。

 「50町歩(15万坪)もらえると聞いた移住地は、水も電気もない、アメリカ製の毛布と天幕が掛かった受け入れ小屋のあるサンタ・クルス州コロニア沖縄第2移住地。広大な土地を開墾できる希望はあったが、原生林のジャングルの深さに驚いた」

 宣太郎さん夫婦は、先発の移民たちとユイマール(相互扶助)暮らし、次女のエリーサさん、長男の宣隆さんをもうけた。

 原生林の大木はおのとのこぎりで伐採するしかないが、あらかじめ半分ほど切り込みを入れ、強風で横倒しにすると開いた土地ができた。10町歩から20町歩へ、開墾は進んだという。

 しかしボリビアでは食べるのに事欠かなくても、蓄えができない。4年たって、先が見通せない暮らしに、沖縄へ帰ったほうがいいと夫婦で決めた。沖縄への旅費を稼ぐため、一家はアルゼンチンへ転住した。

現金主義の事業展開

 当時、「南米のパリ」といわれたアルゼンチン。宣太郎さんは新天地に希望を見出し、沖縄に帰る必要はないと、一晩で決めたという。

 友人をはじめ、在亜宜野座村人会の役員たちに迎えられ、ブエノスアイレス近郊の街「フロレンシオ・バレラ市」で花卉栽培の職を得た。宣太郎さんはこの時、26歳。事業で大成した今もその恩義は生涯忘れられないと涙ぐむ。

 フロレンシオ・バレラ市で、宣太郎さんは生来の才覚ともいえる商売方法で靴販売業を展開する。くぎを買いに出た街で目に留まったわずか6坪の貸店舗で靴店を開き、またたく間に4店舗に増やし、400坪ほどのスーパーマーケットに成長させた。

 成功の鍵は、現金主義・一括仕入れにあった。宣太郎さんが終日商談に駆け回る間、長女の初美さんはレジ打ち、仕入れ、銀行の支払い、従業員の面接から給与支払いまで、本店を切り盛りした。

 1973年から宣太郎さんは靴の買い付けに台湾・中国に飛び続けた。13万足の靴を現金で買い付けて、ブラジルとパラグアイの国境の街へ40フィート(12メートル)コンテナ11台で運ぶと、スペイン語、ポルトガル語に堪能な長男と次男夫婦が卸した。1980年ごろ日本製自動車輸入、パラグアイでの製材業など、宣太郎さんは働き詰めだった。

心はふるさとに

 「お父さんは仕事中も、食事の時も話すのは沖縄のこと。涙を浮かべて話す。きょうだいはいつのまにか退散。聞き役で残るのは私だけ」。宣太郎さんはいつも沖縄を思っていたと、初美さんは振り返る。昼も夜も沖縄の話を„アチラシケーサー(温め直す)“で語り聞かせたと、宣太郎さんも笑う。

 1987年、宣太郎さんは老後を沖縄で暮らそうと、ふるさとの宜野座村に近い金武町屋嘉に家を購入した。日本語を学ぶため一緒に来沖した初美さんはその後結婚、うるま市で暮らしている。宣太郎さんの一時帰国は、初美さんとの再会の楽しみもある。

 宣太郎さんは、ふるさとへの思いを「南米移民子弟研修制度」に託す。県内でいち早く南米の移民子弟研修を始めた宜野座村へ、アルゼンチンの子どもたちを送り出し続け、県系人の電話帳も無償で発行した。

 ボリビア渡航から57年、南米で繰り広げた事業を息子たちに継がせて、今は引退の身。これからは妻のヨシ子さんと長い沖縄滞在を楽しむという。

(伊芸久子)





プロフィール

やぎ せんたろう
 1938年宜野座村生まれ。1960年南米のボリビア、サンタ・クルス州コロニア沖縄第2移住地に入植。1964年アルゼンチンに転住し、フロレンシオ・バレラ市で花卉栽培。1968年靴の「スーパーマーケット エル・ハポネス」4店舗を開業。
1973年台湾、中国より靴を輸入。1980年トヨタ車を輸入販売。1988年チリで日本車の中古車輸入と販売、1994年パラグアイで製材業、家具製造、靴の輸入販売を手掛ける。ラピカージャ日本人会会長、宜野座村人会会長、在亜沖縄県人会連合会会長歴任。2013年外務大臣表彰、2014年旭日単光章受章。子ども4人、孫11人、ひ孫1人

やまうち はつみ
 1959年宜野座村生まれ。屋宜宣太郎さんの長女。生後4カ月に両親とともにボリビアへ渡る。フロレンシオ・バレラ市で高校卒業後、1987年に日本語習得のため来沖。読谷村出身の山内明雄さんと結婚。3児の母

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屋宜 宣太郎さん 山内 初美さん
アルゼンチンでの事業を引退し、10月まで沖縄滞在中の屋宜宣太郎さんと、30年前に帰国した長女の山内初美さん=金武町屋嘉の自宅
写真・喜瀨守昭(サザンウェイブ)
屋宜 宣太郎さん 山内 初美さん
日本語学校に通うため夏休み中のアルゼンチンから孫たちが滞在中。
宣太郎さんの左が妻のヨシ子さん 金武町屋嘉の自宅 2017年
屋宜 宣太郎さん 山内 初美さん
パラグアイの製材所で大木を下ろす 1994年ごろ
屋宜 宣太郎さん 山内 初美さん
フロレンシオ・バレラ市の靴のスーパーマーケット「エル・ハポネス」本店。4店舗で80人の従業員が働く
屋宜 宣太郎さん 山内 初美さん
旭日単光章授章式で写真右端は長男の宣隆さん、左端は次男のマルセーロさん2014年
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