「表紙」2022年03月17日[No.1923]号
こんな時代だからこそ ヒヤミカチ!
『艦砲ぬ喰ぇー残さー』『豊年音頭』などの代表曲で知られる4姉妹民謡グループ「でいご娘」の四女で島太鼓奏者のひがけい子さんが、3月30日(水)に新アルバム『テンミカチ ドンミカチ ヒヤミカチ』をリリースする。自身の太鼓のみならず、歌や三線でも存分に表現を尽くした全14曲入りの本作では、4歳からステージに立つけい子さんを慕う民謡界の大御所から次世代のホープまでたくさんの音楽家がコラボ参加。太鼓の響きで人々に元気を与え続けてきたけい子さんの半生が体現された作品だ。
アルバムの制作過程の「全部が楽しかった」というけい子さん。前川守賢さんが本作のために書き下ろした曲『テンミカチ ドンミカチ ヒヤミカチ』が、そのままアルバム名にもなった。歌の掛け合いや真っすぐなリズムに、思わず体が動き出す。
「テンミカチは三線の音、ドンミカチは太鼓の音、ヒヤミカチは『気合い入れ元気出していこう』という意味で、今回のアルバムのイメージにぴったりでした」とけい子さんは優しい笑顔を見せる。本作のキーワードはまさしく「ヒヤミカチ」と言っても過言ではない。「沈みがちなご時世ですしこの機会だから、と知名定男さんにお願いして作ってもらった新曲『鼓動よ響け』の歌詞の中にも、たまたま『ヒヤミカチ』と入っていたんです」。コロナ禍での閉塞感を打ち破るように、元気を届けたいという気持ちが一つになっていた。
リズムに元気もらう
三線を持つ姉たちに混ざって、けい子さんが最初に手にしたのは打楽器のボンゴだった。物心ついた時からけい子さんは打楽器と一緒だ。民謡以外にも、ロックやポップスといったドラムのリズムが効いた音楽もずっと好きで聴いてきた。お客さんからは「太鼓の音から元気をもらえている」と声を掛けられるというが、けい子さん自身もリズムに元気をもらってきた。
けい子さんが後進の指導に当たる読谷村の「島太鼓慶鼓道場」は、琉球古典音楽の始祖・赤犬子が昇天した場所とされる「赤犬子宮」のすぐ眼下にある。読谷村自体も伝統芸能の盛んな地域だ。「耳の肥えた読谷のオジー、オバー、年配の皆さんに『上手だったよ』と言われるのがうれしいです。堂々と(芸事の盛んな)遊び島出身ですと言えるようにこれからも頑張っていきたいです」と話し、さらなる高みを目指して精進する。
けい子さんが本格的な音楽活動から身を引いた時期もあった。1980年、三女の千津子さんが結婚したことを機にでいご娘が一時解散したからだ。「今考えると、幼いころはでいご娘を家業的な意識でやっていた感覚もあり、いつかは辞められると思っていたんですよ。むしろ普通のOLとかをしてみたくて」。マリンスポーツがやりたくてホテルに就職したものの、でいご娘の解散は、けい子さんの胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちにさせた。ホテルでイベント企画やブッキング担当をしているうちに、やはり芸の世界に戻ってきたけい子さんは、前述の太鼓道場を開き「読谷山島太鼓」を結成するなど精力的に活動を続けてきた。
反戦への思い
でいご娘の歌は、人々に平和の大切さを訴えかけてきた。平和であるからこそ、太鼓で元気も分け与えることができる。代表曲の『艦砲ぬ喰ぇー残さー』は、沖縄戦で生き残った人々を「艦砲の食い残し」と描いた。心に刻まれる反戦歌は、多くの県民の支えになった。作詞作曲したのは父の比嘉恒敏さんだ。読谷村楚辺の海岸近くには同曲の歌碑があり、平和な未来を祈り続けている。
恒敏さんと母・シゲさんは1973年、飲酒運転の米軍属との事故でこの世を去った。父の残した反戦歌もむなしく、今も世界中では戦争が続く。「先の戦争を風化させないようにとの思いでいるのに、この現代にまた戦争は、とうてい理解できない」と声を落とす。
こんな時代だからこその「ヒヤミカチ」だ。アルバムクレジットの最後にけい子さんは、こう添えた。「このアルバムを父、比嘉恒敏に捧げます」―。平和を願い元気をくれる太鼓の音は、天国にまで響く。
(長濱良起)
インフォメーション
CDアルバム『テンミカチ ドンミカチ ヒヤミカチ』
発売元・リスペクトレコード(☎︎03-3746-2503)
アルバム発売を記念したコンサートが6月5日(日)にミュージックタウン音市場で開かれる。問い合わせはミュージックタウン音市場
(☎︎098-932-1949)まで。