「表紙」2024年02月22日[No.2024]号
掲げる夢はパリコレ出展
2009年にアパレルブランドを立ち上げた比嘉一成さん。立ち上げ当初は「COVER」 というブランド名だったが、15年に「HIGA」に改名。自身の名字を用いたことで誇らしさ を感じ、沖縄で最も多い名字とされる「比嘉」を掲げることで恥じることがないようにと、 律する気持ちもあるそうだ。現在に至るまでのストーリー、そして展望を聞いた。
スタイリッシュながらリラッ クス感もあるアイテムを製作 し、沖縄に関連したモチーフ を多く取り入れている比嘉一 成さん。今年の春夏コレクショ ンは海を意識したリゾート・ シティウエアを発表した。
「北谷のような海沿いのお 店で家族でゆっくり過ごす時 に着る服、というイメージでデ ザインしました」
琉球藍で染めたキャミソー ルドレス、八重山民具のクバオ ージ(クバの葉で作った扇)を モチーフにしたアロハシャツな どのアイテムを展開。沖縄の ブランドでありつつ、いかにも 沖縄という見せ方はしたくな いとこだわる。
「世界各国の人に着てほし いので、老舗国際ブランドの 水準に劣らないアイテム作り に取り組んでいます」と力を 込める。自分で作った服の宣 伝活動や販売は自ら行うスタ イルを継続するために201 6年、那覇市内にショップを オープン。 18 年以降は毎年 12 月、東京と沖縄で単独での展 示会も開催している。
「合同展示会に出品しても なかなか買い付けてもらえ ず、小売店に販売を任せても うまくいかなかった現実があ りました。単独で展示会を開 催するようになり、招待状の 数が毎年増えています」との こと。HIGAブランドのフ ァンが着々と増えている。
ファッション好きは母の影響
東京の服飾専門学校でデ ザインを学んだ比嘉さんだ が、ファッションへの興味はいつ からあったのだろう。
「小4の時に蛍光色のパー カーを着たら、カッコいいと言 われたことを覚えています。 中高校生の時は古着が大好 きで、国際通り周辺の古着屋 に通っていました。洋服好き は母の影響ですよ」とのこと。 既製服をリメークするなど、 おしゃれなお母さまだという。
「子どものころは母のタン スを開け、着られる服がない かと探していました」とほほ 笑む比嘉さん。ファッションに 関するエピソードは事欠かな いようだ。服飾デザインを学 んだ後は東京のアパレルメーカ ーで営業や生産管理の職に就 き、工場のある新潟で勤務す るなど経験を積む。
「糸が服になるまでの製造 現場にいた経験は財産になり ました。ブランド服の商品化 も携わりましたし、当時の経 験が今も生きています」
東京コレクションに参加
日本の繊維産地ではない沖 縄でのアパレル展開は、苦労 が多かったという。
「2009年7月に本格的 にスタートし、9月には六本 木の合同展示会に出展しま したが来場者が少なく、大失 敗した苦い経験が残ります。 考えが甘かったと反省しなが ら、ミシンを踏んで1点ずつ 作っていました」と比嘉さん。 しかし、丁寧で上質な服作り が認められたのだろう。県内 ショップでの取り扱いをきっか けに、東京やシンガポールのセ レクトショップから引き合いが あり広がっていったという。ま た県内専門学校の講師とし ても活躍した。
「講師として定着しました が、ブランドを大きくしたい と思い、辞めて勝負に出まし た。憧れの日本最大のファッシ ョンショー『東京コレクション』 に応募したんです」
見事に審査に通り 15 年秋、 HIGAブランドの服が華や かに披露された。初めての沖 縄発ブランドの参加だったと いう。その後は全てが好転し たと語り、企業や学校のユニ ホームを手掛けるなど実績を 広げている。
「ファッションは簡単ではな いですがアイデアで乗り越え られます。後世に実績を伝え られるように精力的に動き、 国際的に認められるブランド にします。目指すは『パリ・ コレクション』への参加です」 と目を輝かせた比嘉さん。沖 縄発ブランドが世界に羽ばた く日が楽しみだ。
(饒波 貴子)
<公式サイト>https://higa.jp
<ショップ>THE ROOM BOUTIQUE OKINAWA
那覇市松尾 2-12-14-301
☎098-860-5515
※来店は事前予約制
写真・村山 望