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[No.2082]

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「表紙」2025年04月10日[No.2082]号

3代で三線作りの技つなぐ
琉球楽器またよし

音づくり 追求し続け76年

 那覇市安里、崇元寺通り沿いにある「琉球楽器またよし」。店内には貴重なセイロン黒檀(こくたん)で製作された三線や胡弓の他、エイサー用太鼓、横笛、ホラ貝など、沖縄の楽器が数多くそろう。建物の3階にある工房では、2代目店主の又吉俊夫さんと、3代目の真康(しんこう)さんと真俊さんが、初代から受け継いだ技で音づくりを続けている。

 子どもの頃から三線が身近にあった。又吉家の三線の歴史は「私の年と一緒なんです」と話すのは2代目店主の又吉俊夫さんだ。初代は三線職人で胡弓奏者、作詞作曲家としても活躍した故・又吉真栄(しんえい)さん。「カンカラ三線」を作ったり、地元・読谷村喜名の青年団で地謡をしたりするなど、芸能に親しんできた真栄さんが石川市(現うるま市)で「又吉真栄三味線店」を創業したのは、1949年。48年12月に三男の俊夫さんが生まれてすぐのことだった。

 店は繁盛したものの、数年後に一家は宮崎県へ移住し、約1年半農業に従事することに。「朝鮮戦争後、親父は胸騒ぎがして沖縄を離れたんです」。父・真栄さんはそこで農業の傍ら、内地三味線を製作した。大阪に暮らす琉球民謡の大家・普久原朝喜さんの元に作品を持って訪れると「早く沖縄に帰って三線作らんか」と喝が飛んだ。那覇市松尾で三線店を再開(後に久茂地に移転)。以後、名工として三線作りにひたすら励んだ。

これからの世代のために

 2代目の俊夫さんが父と同じ三線職人の道に足を踏み入れたのは19歳の時。漫画を描くのが好きで、高校卒業後は東京のアニメーション学校に進学したものの、向いていないと半年で中退した。そんな俊夫さんに父・真栄さんは声をかけた。「これから生まれてくる子どもたちのために2人で三線を作ろうじゃないか」。もともとものづくりが好きだった俊夫さん。その言葉に感銘を受け、二つ返事で受け入れた。

 「親父ができないことを俺はやりたい」と素直になれなかった俊夫さんは、大阪で普久原朝喜さんの元に預けられ、半年後には琴の会社で1年間でっち奉公した。技術を学び、礼儀作法や人を敬う心も培った。漫画をひたすら描いたこと、大阪での経験、全てが今に生かされている。

 父・真栄さんが70歳で亡くなった後、86年に「琉球楽器またよし」として独立。以前の店舗は裏通りにあったが、「商売は表にでないとだめだ」が口癖だった父の思いを継ぎ、表通りに店を構えた。

初代の残した原木を使用

 棹(さお)の材料となるのは希少なセイロン黒檀だ。「海洋博の頃、親父が10㌧トラックの3台分ぐらい確保した原木」だという。50年じっくり寝かせて乾燥させた原木の変化を見ながら慎重に丁寧に手早く仕上げている。

 「ひたすら音づくり」がモットー。「これだけを考えて、いい音を出すように頑張っています。(自分の作った)三線を楽しんでもらえるのが一番の心の喜びです」

 三線作りの技は俊夫さんの2人の息子たちへと受け継がれている。「父と祖父を見て育ったので、いつかは自分もという意識はあったと思いますが、自然の流れでした」ときっかけを振り返る次男の真俊さん。兄弟が三線の世界に入り約30年がたつ。「そろそろバトンタッチですね」と俊夫さんは言うが、「父は一生現役と言っているので、動けるうちはずっと工場にいると思います」と長男の真康さんは言う。

 今後は店を残していくために組織づくりが必要と感じているという俊夫さん。「最低300年ぐらい続けてほしいというのが目標です」と笑顔を見せた。

(坂本永通子)



琉球楽器またよし

琉球楽器またよし
那覇市安里64-7
☎098-861-3484
営業時間=9:30~19:00
定休日=日曜
https://www.matayoshi34.com/

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琉球楽器またよし
(左から)又吉真俊さん、俊夫さん、真康(しんこう)さん。工房で三線や胡弓作りに励んでいる。俊夫さんの妻・則子さんや長女・真樹子さんも家業を支えている=那覇市安里の「琉球楽器またよし」
写真・村山 望
琉球楽器またよし
さまざまな道具が並ぶ工房で三線作りに取り組む
琉球楽器またよし
1955年から使い続けている初代も愛用していた帯ノコ機。今も現役で活躍中
琉球楽器またよし
店内には多種多様な沖縄の楽器が並ぶ
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