「島ネタCHOSA班」2011年08月18日[No.1377]号
最近、「琉球ウミンチュの像」を台湾に建てようと頑張っている人たちがいると聞きました。どんないきさつがあったんでしょうか?(2011年08月18日掲載)
「ウミンチュ」の像、海をわたる
(那覇市・40代男性)
「琉球ウミンチュ」というネーミング自体、オリジナルな感じ。投稿していただいた完成予想図を見ると、ムキムキで骨太な男性が、未来を指差して大海原に漕ぎ出す雰囲気が出ております。
さっそく「琉球ウミンチュの像建立期成会」発起人の石原地江(くにえ)さんにお会いした。石原さんは、外国人との間のビジネスをサポートする会社を営み、台湾に県産品の販路を確立しようと訪れた際に、台湾北部・基隆(キールン)市とウミンチュのつながりを知った。
「沖縄から来たと言うと、当時を知るご老人たちが、”琉球の漁師のおかげで基隆は栄えた。あなたたちは私たちのきょうだいだ“と、感謝の言葉を口にするんです」
石原さんによれば、1900年前後からウミンチュが基隆を中心に台湾へ渡り、「琉球村」と呼ばれるコミュニティーを築く。多い時は500人以上が生活していたそうだ。当時小学生だった女性の手記には、基隆でのウミンチュの生活が生き生きと描かれている。
『旧暦5月4日の海人祭を「海御願(うみうがん)」といい、航海安全と豊漁を祈願した後、爬竜船競漕を行った。周りでは、鉦や太鼓を打ち鳴らしながらカチャーシーで応援する女性たち。相撲大会なども行われ、台湾の人たちも、「さすが琉球人」と感心していた』そうだ。でも、なぜ琉球人はこうも感謝されているの?
得意分野を伝えた
ウミンチュのことはウミンチュに聞こう! と訪れたのは、糸満市役所、その名も海人(ウミンチュ)課。副参事の福元毅さんは、「琉球ウミンチュ=オール糸満ウミンチュではないですよ」と前置きして、糸満市史を手に話してくれた。
「糸満ウミンチュの海外出漁の記録は、明治中期以降です。沖縄のウミンチュは国内はもちろん世界各地に漁場を求めていて、当時、漁業者がほとんどいなかったと記録される台湾では、水産業の先駆者として評価されているようですね」
もうお一人方は、糸満漁協代表理事組合長の金城宏さん(69歳)。曾祖父の代に一家で糸満から八重山に移住し、八重山生まれの金城さんが基隆を初めて訪れたのは、25歳のころ。
「糸満は網漁と潜りが主流だから、カツオ漁に使う生き餌と当時中国に大量に輸出した天草(海藻)を採っていたんだよ。突き棒を使うカジキ漁は、与那国とか別の地域の漁師が教えたと思いますね。僕が行ったころも、台湾はとっても貧しかったよ。だから、先輩たちが、それぞれ漁の得意分野を基隆の人に教えて、生活がうるおったんじゃないかな」。 金城さんから語られるウミンチュの「網漁」や「潜り」や「突き棒」などの漁法の数々を聞いているだけでも、世界の海を相手にしてきたウミンチュの気概が感じられる。しかも海にはマニュアルなどない。先輩から引き継ぎ、命がけで覚えてきた大切な”財産“で、当時、海の恩恵を受けられずに苦労していた基隆の人たちに、豊富な海産物と希望を与えたのだとしたら。ロマンを感じてジーンとした調査員。
「当時から基隆の人はね、ヤマトの商社マンとかとはあまり話もしなかったけど、ウチナーンチュのことは”琉球ラン“と呼んでね、友達のように、身内のようにとても親しみを持って接してくれたよ」。
こうしたウミンチュ”オールスター“と基隆の人たちの交流の歴史ときずなを語り継ぐシンボルになれば、と琉球ウミンチュ像を建てるべく奔走している石原さんたち期成会のメンバー。お目見えするのは、初冬のころの予定だ。