「島ネタCHOSA班」2011年11月03日[No.1388]号
有名な話かもしれませんが…。名護市役所の庁舎には、たくさんシーサーがいますよね。なぜあんなにあるのか調べてください。(2011年11月03日掲載)
名護市庁舎・シーサーの由来は?
(浦添市・Tさん)
有名な話ならと、ネット検索をしてみた調査員。すると、数については「名護市庁舎には市内55の集落プラス市役所を足した数・56体のシーサーがある」と出てきた。ほかにも「おのおの集落の方を向いて見守っている」とか、「名護名物ヒートゥ(イルカ)の慰霊のため」ともある。なーんだ、答えが出てしまったではないか。しかし、せっかくご依頼があった以上、裏付けをせねば、と名護市役所を訪ねた。
対応した総務部の比嘉誠さんが、資料を基に解説してくれた市庁舎建設に至った話をまとめると、
「1970(昭和45)年、名護町・屋部村・屋我地村・久志村・羽地村の1町4村が合併して名護市が誕生。市制10周年記念事業として『名護市庁舎建設委員会』が設置され、一大プロジェクトが立ち上がったのが1976年。設計コンペには、全国から308もの案が集まった。委員会で議論を重ね、市民の意見も多数取り入れて1980年着工、1981年に完成」。
さて、いよいよシーサーの数について…と身を乗り出す調査員に、痛烈なカウンターパンチとも言うべきひと言が。
「市内55集落プラス市役所=56体とよく言われますが、これは後付けです」
えーっ? 「沖縄大好き検定」にも出題されていたのでは?
「はい、これ(出題)も削除してもらいました」。
”百ネットは一聞“に如かず…。そしてさらなるボディブローが。「完成してみたら柱が56本あったので乗せただけだそうですよ」。
「そこに山があったから…」とは聞いたことがあるが、「そこに柱があったからシーサーが登った」だなんて。肩を落とす調査員に、「30年前ですから詳しく知る人は役所内にいないですが、当時の建設委員を紹介しましょう」と、一枚の名刺を託してくれた。
役所の主役は市民
名刺の主は、市庁舎建設当時、名護市教育長を務め、現在は社会福祉法人の理事をなさっている比嘉太英さん、御年83歳。「行政はもちろん、地元の議員とか婦人会長とか商工会関係者、建築家などで構成する委員会でね、もう一生懸命議論して意見を集約しましたよ」と当時を振り返る。
「役所の主役は市民ですからね。私個人の意見では、まずは機能的じゃないといけないと思って頑張ったけどね、ちょっと文化的すぎたかな。でも、シンボルとして注目もされたし、観光で京都から来た人にね、”立派なお寺さんやねー“ってほめられたこともあったよ」と、懐かしそうに目を細める比嘉さん。
「あぁ、横道にそれてごめんなさいね。シーサーね。当初はね、シーサー乗せる計画すらなかったんですよ。でも館(庁舎)ができたでしょ、沖縄では屋根にシーサー乗せるさー。だから、柱に乗せようと数えたら56本あって、構造上問題ないっていうし、せっかくだから全部に乗せようってね。シンプルな話よー」
とほほ笑む比嘉さん。かんかんがくがくの議論を経て完成した庁舎。感慨深く見上げてみると、あいー、シーサーがないさー! と相成ったわけですね。
「でも、後日談があってね」と言葉を続ける。「名護は戦前からヒートゥ(イルカ)が貴重なタンパク源でね。最盛期には一度に300頭もの群れが来ていたわけ。でも潮の関係とか法律が変わって、今は来なくなったさ。漁師さんたち困ってね、”56ものシーサーが海ににらみを利かせているからヒートゥが来なくなった“って抗議もあったりしてね」
「ヒートゥの慰霊…」の話をすると、「聞いたことないね。後付けじゃないかな?」とまた言われ、抗議で指摘されたように海を向いているから「各集落を向いている話」も、うわさが一人歩きしているようだ。
「当時、合併したとは言っても、役場機能も以前のように5カ所に散っていたし、役場の人間同士会ったこともない。かつては隣村だからライバルというか意識がバラバラだったから苦労したけどね、新庁舎ができて、ものすごい一体感が生まれたんだよね。あぁ、名護市になったんだな、と実感させてくれたのがこの庁舎だわけさ」
比嘉さんの話を聞いていると、名護市庁舎にまつわる都市伝説もまんざら悪くないなと思えてきた。市民の心を一つにした庁舎に仲良く並ぶシーサーたちは、今日も市民を見守っているのだ。