「島ネタCHOSA班」2012年08月9日[No.1428]号
県外から移住してきて不思議に思うことがあります。それはお米の売られ方です。こちらでは、どこのスーパーでも10㎏売りを見かけません。これは何か理由があるのでしょうか? (浦添市 Tさん 2012年08月2日掲載)
10㎏売りの米がない!?
ん~と言われても、あんまり気にしたことがない…。半信半疑の調査員はとりあえず現地調査してみようとスーパーへ…。5㎏以下はあるものの確かに10㎏のものはない。念のためにと他の店も回ってみましたが、やはりどこも5㎏がメーンで10㎏は1つも見当たらず。むむむ。これは陰謀のかほりがプンプンいたしますな! 調査だ!
身近な場所で購入
やって参りました沖縄食糧株式会社(浦添市)。さわやかな笑顔で応じてくれたのは米穀部企画課主任の田幸正邦さん。陰謀のにおいを逃すまいと調査員は鼻の穴をおっぴろげて…あ、お米のいいかほり…おっと、いかんいかん。惑わされませんよ田幸さん!
「いえいえ、陰謀ではありません。きちんと理由もお話できますよ(笑)」
陰謀ではないと? ではさっそく聞かせいただきましょうか。
「簡単に一言であらわすとお米との距離感ということでしょうか」
う~ん…距離感ですか?
「はい。沖縄は本土に比べてお米は身近な食糧だったんです」
え!? そうなんですか?
「県内でお米の規格包装による販売が始まったのは1963年のことでして、それまでは商店で量り売りの形式で売られていました。終戦直後の米軍政府による配給計画に『売店はできるだけ住民が歩いて行ける範囲の便利な場所に設置すること。売店は毎日開けること』とあり、県民はわりと身近な場所で購入できたことが推察できます」
ほ~。本土はそうじゃなかったんですか?
「本土には食糧管理法がありますので、お米は全て政府が買い上げ、かつ価格も決めて免許制で配給や販売を行っていました。免許というのはお米を販売するための免許ということです。これがないと小売店は売ってはいけなかったんですよ。そのため、当時、お米は限られた場所でしか購入できなかったんです」
はっは~ん。沖縄は販売するのに免許がいらないから、どこのお店でも売買ができたということですね。
「はい。1955年ごろからの琉球政府の自由化策によって、販売は自由化され、小売店はどんどん増えていきました。1972年の復帰当時には、その数は8000店にも上ったそうですからね」
8000店!? そんなにですか。そうなるとますます、「いつでも、どこでも」ですね。
「そうなんです。いつでも、どこでも買えるのだから、大量に買わなくても小分けでということです。それと、もう一つ、沖縄には本土と違って、御用聞きや宅配の文化もなかったので購入したお米は自分達で持ち帰るものでした。そうすると、重いのはナンギ~となるわけです(笑)」
なるほど~。サザエさんでいうサブちゃんが沖縄にいなかったということですね(笑)。
本土復帰の影響も?
「ただ沖縄でも10㎏規格で販売していたこともあるんです。本土復帰後からは標準価格米が10㎏で販売されていましたし、当社の『でいご10㎏』が県内で主流だったころもあります。しかし、本土系スーパーが進出してきた1970年代後半には、あちらの主流だった10㎏規格は売れ残ってしまうことが多くなっていました。やはり県民のニーズには合わなかったようですね」
今は車社会だから重くもないのに、なぜでしょうか?
「本土復帰したことで沖縄も食糧管理法が適用され、お米の販売価格を本土並みにするため毎年値上げが繰り返されていきました。度重なる値上げの中で10㎏規格は経済的負担も大きかったのではないでしょうか」
経済的負担か~。そうかもしれないですね。歴史と経済が入り混じって今の形になっているということなんですねぇ。
最後に豆知識を。田幸さんいわく、通常、九州なら九州地方で作られたお米が、東北なら東北でといったようにその地方近隣のお米で市場が占められるところ、稲作農家が少ない沖縄は全国各地のお米が集まってくる珍しい地域なんだそう。つまり、沖縄にいながらにして全国のお米の食べ比べができるというわけです。なんて素晴らしいんでしょう!