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[No.1434]

  • (金)

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「島ネタCHOSA班」2012年09月13日[No.1434]号

ガジャンビラ=蚊坂?

 那覇市小禄に「ガジャンビラ」という名称がありますね。夜景がきれいなので、ガジャンビラ公園によく行くのですが、名前の由来が「蚊(ガジャン)」と関係あると聞きました。本当ですか?(浦添市・Tさん 2012年9月20日掲載)

ガジャンビラ=蚊坂?

 「プーン、チクッ!」と来るアレですか? この話、「うるくぬんかしばなし」(小禄の昔話/那覇市教育委員会発行)に載っています。
 「その昔、沖縄には、蚊はいなかったのね」—物語のっけから、衝撃的なことをさらっと言うじゃないの。話は、「『プーン、プーン』する羽音にひかれ、唐の国から蚊(ガジャン)を持ち帰った人が、港に着いて急いで帰ろうとしたら、坂(ビラ)で転んで逃がしてしまい、その後、沖縄中に蚊が広がった」とあります。唐は618年〜690年・705年〜907年の中国。遣唐使が行き来した時代です。

昔はいなかった?

 民話の事実確認なんて無粋かもしれませんが、専門家のご意見は? 琉球大学医学部保健学科で、蚊の形態・分類、生態、防除について研究している當間孝子さんにお聞きしました。

 「現在、沖縄には72種の蚊が生息しています。はっきりした文献などが残っているわけではありませんが、当時、沖縄に蚊がいなかったとは、考えにくいですね」

 蚊は、水や茂みなどの環境が整っていれば生きていくことができ、暑い地域では、年中活動や繁殖を行っているそう。沖縄は、彼らの好きな条件がそろっているといえますね。

 「戦前には日本の昆虫学者が、戦後は外国の学者も沖縄で蚊の調査を行っています」

 なるほど、病気を媒介するやっかいな存在ではありますが、身近だからこそ、さまざまな角度から調査・研究の対象になっているんですね。

ある一家と関係?

 しかしここで、気になる文献が。東恩納寛惇著『南島風土記』によると、「ガジャンビラ」=「我謝の坂」説が挙げられています。

 「一帯に我謝という地名は見当たらないから、屋号か?」とは、寛惇氏のコメント。つまり、我謝さん一家所有の土地というのです。

 先述の「うるくぬんかしばなし」を編集した那覇市教育委員会文化財課課長で、史学の文学博士でもある古塚達朗さんは、「ビラは、首里から見て下る方の坂を指します。我謝説は、那覇の人たちの間でも言い伝えられている一説です。ただ、琉球王府時代の文献には、『蚊坂』と出てきます」と話します。資料の乏しい時代の地名の由来、特定するのは難しいですね。

 「那覇には、『はじめて物語』がいくつかあって、ミミズもそうなんです。奥武山の小島に住んでいたミミズが、将来を悲観していた所にハブが訪ねて来て、通堂町へ導いたことがきっかけで、全県に広まった、とかね」

 生活に密接な存在だからこそ、研究されたり民話に残る。ミミズも蚊も、当時の人たちと共に生きていたんですね。

 ところで古塚さん、ガジャンビラの民話、締めはこうあります。

 「ガジャンがよ、国頭まで広がったら断髪世(ダンパチユウ)になるって言われてよ、ほんとうに明治になって断髪世になって、国頭までガジャンが広がったんだねぇって、言ったもんさぁ」

 「それはね、当時の人たちの時間の感覚が表れたものなんです。沖縄の民話には、『むかしむかし あるところに』とか『とっぴん ぱらりの ふう』など、頭と最後の決め言葉がないのが特徴なんですが、この『国頭まで〜』というせりふは、ほかの民話の締めにもみられます」

 今は3時間程度の距離でも、昔の人にとってはいく代にもわたる、気の遠くなるような感覚だったんですね。

 さて、「蚊坂」説と、「我謝の坂」説。親しみのあるガジャンが冠せられたからこそ、古い名称が残ったと思う調査員。さらには、唐との交流や、沖縄の玄関口・那覇の様子、虫を愛でる当時の人々の風流までが詰め込まれている物語。前者にロマンを感じた調査員なのでした。


ガジャンビラ=蚊坂?
夜景が人気のガジャンビラ公園
ガジャンビラ=蚊坂?
ガジャンビラの名残と言われる旧小禄バイパス
ガジャンビラ=蚊坂?
旧バイパス沿い、港を望む場所にある案内板
ガジャンビラ=蚊坂?
古塚達朗さん
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