「島ネタCHOSA班」2013年08月29日[No.1482]号
北谷小学校は、北谷町立なのに沖縄市にあるんですって。面白いですね。経緯を調べてください。
(沖縄市・タッチさん)
北谷小は沖縄市内!?
北谷町立北谷小学校なのに、所在地は沖縄市? 地図で確認すると、なるほど北谷小だけ、沖縄市側の南桃原に入っています。境界線の間違い? さっそく北谷町へ確認に行きました。 「背景には、沖縄戦の後、北谷のほとんどが米軍基地に取られたことがあるんです」。同町教育委員会教育総務課の松田健一さんが説明してくれました。
山あり、谷あり
戦前、北谷住民の多くは、今の嘉手納基地などに当たる広大な平地に住んでいたそうです。昨年130周年を迎えた北谷小も戦前は、嘉手納基地第1ゲート付近にありました。しかし戦後、北部の収容所にいた北谷の住民が居住を許された場所は、小山がうねり起伏が激しい、北谷の東端、桃原地区だったそうです。その後、周辺に小学校を造るのに、平らな場所を探し、沖縄市側の今の敷地になったということです。「学校用地は沖縄市から購入して、現在は北谷町の所有です」と松田さん。
でも沖縄市にあって不便はないの? 北谷小は困っているのでは…。これは直接聞かないと。校長の瀬名波健さんを訪ねました。
130周年おめでとうございます。沖縄市にある経緯を調べています。
「2月に記念の祝賀会を持ちました。その時などに、地域の方から学校の成り立ちなど聞きましたよ。戦後の混乱の中で、先人たちは、何とか早く学校を再開させようと、土地を探し、ここを選んだそうです。起伏が激しい場所だから、有志が集まり、山をならし谷を埋め立てたそうです。今でも校舎と校庭にかなりの高低差がありますが、何度も埋め立ててきたそうです。教育熱心な地といえますね」
地域の情熱が詰まっているんですね。ところで、沖縄市にあることで不便はありませんか。
「緊急時や避難訓練では沖縄市消防が来てくれますが、施設見学では北谷町立学校なのでニライ消防に行きます。それが少し違うところかもしれません。ただ、普段は意識することはないです」
そうか。理由も分かったし、問題もないなら調査終了。と、校舎の外に出ると、確かに敷地がいびつ。校舎は高台で、校庭は長い階段の下の方。ここに学校を造るなんて相当大変。食べるのもやっとのときに、なぜそこまでして造ったのか。当時の人に聞きたくなりました。
土の代わり頭耕す
桃原自治会の紹介で、当時を知る喜友名朝昭さん(84)と花城可保さん(82)に会えました。二人とも戦前の北谷小(北谷国民学校)の卒業生です。
早速ですが、戦後、学校を再建したころのことを教えてください。
「当時、米軍が全部管理して、住民は宜野座や金武に移動させられてね。1946年10月にこの地域に移住していいとなったが、この辺は草が茂る山で住宅地ではなかったんです。建築班と農耕班の先遣隊を出してから移住してきたんだよ。それから、早めに学校を造ろうと、山の斜面が空いていたから、何十人かでシャベルやクワを使い土を引いて造ったんだよ」喜友名さんも毎日、軍作業の仕事を終え帰ってから、学校を造ったそうです。「かやぶきだったから台風で何度もやられて、その度に造り直したよ」
学校は47年4月に開校。しかし、すぐに米軍政府の布令が出て、市町村の境界を戦前の通りにすることになったそうです。
「北谷小を含む桃原の一部が当時の越来村になったけど、小学校を移す場所が他になくてね。その後、越来村と用地を交換しようなどの話もあったけど、結局は北谷が土地を購入したんだよ」
開校が先だったんですね。納得です。ところで、大変な時代によく学校を造りましたね。
「北谷は、よく肥えた農地をすべて米軍に取られてね。もう耕す農地はないから、子どもたちの頭を耕せって言ってたんだよ」と喜友名さん。花城さんも「学校は地域の宝」と話しました。
地域の宝—。住所の不思議を調べていたら、学校に対する地域の熱い思いに出合いました。感動にひたり大満足で調査を終えました。