「島ネタCHOSA班」2014年1月16日[No.1501]号
屋我地島の「オランダ墓」に葬られているのはオランダ人ではないと聞きました。どんなお墓なのですか? なぜ「オランダ」と呼ばれているのですか? ぜひ調べてください。
(今帰仁村 Tさん)
「オランダ」はどこの人?
「オランダ墓」なのに、オランダ人の墓ではない? 一体、どういうことなのでしょうか? 真相を探るため、名護市の屋我地島にやって来ました。
実はフランス人の墓
地元・運天原の区長、花城清敏さん(64)に話を聞きました。
「『オランダ墓』と呼んでいますが、実際に葬られているのはフランス人なんですよ。昔は外国人はみんな『オランダー』と呼ばれていたんです」
じぇじぇっ。
「今から160年以上も前のことらしいですが、急病とか、ハブにかまれて亡くなったらしいとも聞いていましたけど…」
子どもの頃から「オランダ墓」と呼んでいたというその場所に早速、案内してもらいました。運天原漁港のそばにある、波打ち際沿いの小道を歩き、階段を上がると、亀甲墓風の形をしたお墓があり、その上部に墓碑が二基並んで置かれています。
墓は北西を向き、ちょうど対岸に運天港(今帰仁村)を望むことができます。墓の横に立つ案内板には日本語・英語・フランス語で二つの墓碑について解説が記されていました。
「1846年6月、フランスの軍艦3隻が運天港に入港。現地で約1カ月間交易交渉を求めるが失敗に終わる。その間、乗組員に2名の死者を出し、この地に手厚く葬られた。この墓の管理は当時今帰仁間切(今帰仁村運天)で行っていたが、現在では地元・運天原区(名護市)で行われている」とあります。
「年に一度、『クリスマスのお参り』といって、区の子ども会とPTAで墓の掃除をして、お供え物もしています」と花城さん。現在も区民で大切に管理している様子がうかがえます。
当時の様子が知りたくて、今帰仁村歴史文化センターの仲原弘哲館長(63)を訪ねました。
「運天番所(現在の役場)の役人たちは、このフランス人の遺体の処置をどうしたらいいのか、首里王府まで問い合わせます。そして泊村(那覇市)の例にならって済ませたんです」
資料によると子豚、庭鳥(にわとり)、タイ、ワラ唐紙、線香など琉球式の方法で外国人を葬ったそうです。場所は、運天の番所からも目の行き届く対岸の屋我地の浜でした。
「日本が鎖国をしていた時代に交易があったのは清国(中国)とオランダ。村人は青い目をした外国人なんてめったに見たことがない。西洋人はみんな「ウランダー(オランダ人)」だったのでしょう」
なるほど。「『オランダ』という呼び方には日本の鎖国政策の影響があったわけですね。ちなみに当時の泊村(那覇市)に残る外人墓地も通称「ウランダ墓」と呼ばれていたそうです。
宜名真に眠るのは…
調査を進めていくうちに「オランダ墓」と呼ばれる墓が本島北部にもう一つある、という情報を耳にし、早速現地へ。
国頭村の宜名真トンネル手前の海岸沿いの宜名真集落に「オランダ墓」と刻まれた石碑を発見!
近づいて刻まれた碑文を読んでみると…。
「一八七四年(明治七年)英国船が海上で台風に遭い船体が破壊されて辺戸村宜名真海岸に漂着した。(中略)船員は五人だけ生存し他はすべて溺死したがその中四死体(が)海岸に漂着した。村民はこれをこの地に埋葬してオランダ墓と呼んでいる(略)」
こちらはなんとイギリス人。『国頭村史』(1967年発刊)には、この座礁したイギリス船の船底にバラスト(船を安定させるための敷石)として積まれていた石が、オランダ墓の他に大宜味村役場の慰霊碑や今帰仁村の為朝上陸碑に利用されているとのこと。また村内の奥集落には、この座礁船のものと伝えられる錨(いかり)が「オランダ錨」として現存しています。
「ウランダー」として今も伝えられる外国人の墓を通して、琉球、日本、そして世界の歴史の一部分を垣間見ることができた調査員なのでした。