「島ネタCHOSA班」2016年05月19日[No.1621]号
4月7日付けの本紙「バス途中下車 あまはいくまはい」で紹介した宜野湾市の「でいご通り」。記事に対して、現在はデイゴの木はないのでは、との電話やはがきが寄せられました。そこで今回はあらためて、でいご通りの名前の由来や現状を探ってきました。
「でいご通り」 デイゴはあるの!?
伊佐交差点と普天間を結ぶあの通りは、なぜ「でいご通り」と呼ばれるようになったのでしょうか? 調査員はまず宜野湾市立博物館へと向かい、学芸係長の平敷兼哉さんに話を聞きました。
400本のデイゴを植樹
数年前に市民講座「街の移り変わり」で、講師を務めた平敷さん。参加者とバスに乗って宜野湾市内を一周し、「でいご通り」に差し掛かった時に名前の由来を説明したそうです。
「入手した資料によると、デイゴ街道を作って沖縄の観光名所にしたいと考えた地元の方が、デイゴの木を植え付けたことがきっかけになっています。1964年5月のことでした」と平敷さん。「以前の宜野湾は普天間を中心に栄えていて、松並木が名物でした。木陰がいこいの場になっていたようですよ。松の木は戦争で焼けてしまったので、代わりになる並木を作りましょう、ということでデイゴを選んだそうです」
松の木は手入れや管理が困難なので、沖縄のシンボルであるデイゴがふさわしいということになったようです。
平敷さんが参考にした資料は宜野湾市史で、デイゴの植樹に関する当時の報道が載っていました。「喜友名でパン屋を営んでいる照屋次郎さんが街道をつくる夢を持ち、デイゴを買い集めている」という内容で、「普天間入り口から約600㍍の道の両側に25㍍間隔でデイゴの木を植えている。数にして400本で、銀行や青年団ほか知人の協力によって総費用5500米ドル(1米ドル=360円換算で、約198万円)がほぼ集まった」と記録されていました。 真っ赤なデイゴの花が広がる通りにしようと、照屋さんを筆頭に住民の皆さんが熱心に活動に取り組んでいたようですね。
それから「でいご通り」と呼ばれるようになったわけです。
にぎやかだったでいご通り
市史・市報を参考にしつつ、自分の足で史跡や地域の人を訪ねて情報を集め、宜野湾市の歴史をまとめている平敷さん。 「でいご通りのような公道で、木を植えたい個人の気持ちが実現した時代背景が興味深いですよね。今なら許可は下りないでしょう。当時のデイゴはほとんど残っていませんが、通りの名前が今でも認識されているのは素晴らしい。デイゴの花が咲く時期の今、通りに赤い花がたくさんあったらどんな光景だろう…と想像すると楽しいですね」と笑顔で語りました。加えて、1960〜70年代のでいご通りには映画館やホテル、大型レストランといった施設があったことも当時の地図を見ながら教えてもらいました。
博物館を後にし、でいご通りに行ってみると…。「喜友名バス停」(住宅側)近くで、太くて立派なデイゴの木を発見! 美しい花を咲かせていて、デイゴ並木を夢見た照屋さんの思いが伝わってくるようでした。そのまま普天間向けに歩くと、その照屋さんのお店「ジローベーカリー」があります。パンやケーキほかたくさんのお菓子が店頭に並んでいましたが、創業から半世紀を過ぎても変わらぬ味を守り続け、なじみ客の多い人気店として知られているそうです。
県中部土木事務所に問い合わせたところ、でいご通りは「県道81号線の一部」で、最新の植樹状況として「住宅側にマツ、フェンス側にモモタマナを植えた」という2014年度の記録が残っているとのこと。「デイゴはかなり前からない」と把握しているそうです。
現在は数本残っているだけですが、400本が植え付けられるとすてきなデイゴ並木だったことでしょう。歩きながらの帰り道、赤い花が咲き誇り、この通りがたくさんの人々でにぎわった当時に思いをはせ、ノスタルジックな気持ちになった調査員でした。