「島ネタCHOSA班」2018年01月11日[No.1707]号
おばあちゃんから、昔、那覇の中心は東町から那覇港あたりだったと聞いてびっくりしています。本当ですか?
(那覇市 中学2年生さん)
昔の那覇の中心は!?
私もおぼろげながら、そんな話を祖母から聞いたことがあります。この調査依頼、喜んで引き受けましょう!
と意気込んではみたもの、自分がその一帯に全くなじみのないことを思い出し、冷や汗がにじむ調査員。まぁ、用意周到な準備もいいけれど、今回はあえて地図を手にせず、ゆっくりとお散歩してみることにしました。
戦前の風景をしのぶ
最初に調査員の目に入ってきたのは、国道58号沿いの交差点のど真ん中に設置された花壇。前後左右に道路が走るなか、なぜこの花壇が残されているのか不思議ですが、丁寧に手入れが行き届いている花壇を見ていると、古き良き時代の町並みの息吹がいまだ地域に温かく残っている感触を感じます。
歩き進んでいると、あちらこちらに久米三十六姓の名残か、中国姓らしき表札や中華料理屋を発見。そして住所は東町なのに、なぜか西消防署や西武門病院があるというユニークな風景に次々と出会えたのでした。
では、実際にこの一帯を知る皆さんに直撃してみましょう。朝一番に元気に迎えてくれたのは、那覇港よりディナークルーズや水中観光船などを運行する「有限会社ウエストマリン」営業推進課課長の新城秀作さん。「那覇港一帯が、昔すごい盛り上がりをみせていた場所だったということは、地元の年配客からよく聞きますね。小禄のお客様は、『那覇に行くときは離島に行く気分だよ』という方もいます」
次に、古き西本町(現西町)の出身で、沖縄芝居の舞台芸術の第一人者の新城喜一さんを訪ねてみました。取材場所は、新城さんが描いてきた昔懐かしい沖縄の風景画を見ながら、コーヒーやお酒が飲める「GALLERY『画亜歩』(ギャラリー・ガアブ)」。那覇市の開南交差点に位置する薬局2階の店内入口を抜けると、新城さんとご家族が迎えてくれました。
「私が生まれ育った西本町は、昔は西村と言われていた場所で、ぜんぶ瓦屋根でした。私が生まれた年にちょうど水道が引かれたんです。金持ちしか水道は使えなかった。私はよく体調を崩していたもんだから、人力車で泉崎橋を渡って病院に行きました」
うーん、昔の風景が目の前に浮かんできますね。
「東町には大きな市場があって、布や壺屋焼、魚、肉、野菜など何でも売っていた。昔はビニール袋がないから、風呂敷に包んで。戦争の時は、軽便鉄道に乗って西原の運玉森近くの親せきの家まで避難し、ポンポン船で粟国島まで逃げた。ガマに隠れたし、ソテツ地獄も味わったよ」
そんな思い出に続き、新城さんは「戦前の沖縄の風景はどこも情緒があって美しかった」と振り返ります。「戦後は個性がない建物ばかりで味気ない。あんた、またいつでも来なさい。絵も話もまだまだあるよ」。新城さんはゆっくりとした口調と優しい笑顔で見送ってくれました。
先人の世から栄える
最後に訪れたのは、那覇市歴史博物館。学芸員の外間政明さんが迎えてくれました。
「琉球王国時代、中国から琉球にきた冊封使たちは、現在の東町に位置する宿舎「天使館」に宿泊していました。県庁も那覇西本町にありましたし、那覇の役所も東町にありました。明治時代から戦前までは東町市場(ナーファヌウフマチ)があって栄えていたんですよ」と、丁寧に解説。
先人の世から命を紡いできた壮大な歴史を感じながら、かつて栄華を極めた場所でレストラン船に乗って夜景を眺めたり、古き沖縄の風景画を見ながらコーヒーを飲むのもいいなぁと、思いにふける調査員なのでした。