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[No.2042]

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「ワシントコポスト」2024年06月27日[No.2042]号

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感謝! 感謝!

 その日は梅雨の中休みで、曇り時々晴れの天気だった。眼科に行くため、タクシーに乗った。私のユンタクを聞いてくれた運転手さんにお礼を言って、目的地で降りた。タクシーが発車した瞬間に、傘を忘れたことに気が付き、暗い気持ちで待合室にいた。約20分程して、先程の運転手さんが傘を届けてくださった。あきらめていた愛用の傘が戻って夢のよう。

 「ありがとうございます」を連発、お名前を聞きそびれたことを後悔している。今時の事情で運転手さんの名札が伏せられているのは残念に思う。

 時間を削って届けてくださった心やさしい運転手さん、ありがとうございました。感謝、感謝です。

(那覇市 三好佐阿子)

(編コメ)梅雨時の心温まるエピソードをありがとうございます。愛着のある傘をなくしてしまうと残念なもの。心優しいタクシーの運転手さんに感謝ですね。

カラフルなカレー

 カレーは、迷わずに食べるけれど「どれから食べようかな?」と考えてしまう。

 にぎやかでカラフルなカレーが食べたくて、いつもの白米をサフランライスの黄色にして、たくさんのトッピングを乗せる作戦。ニンジンとレーズンのニンジンラペ、紫キャベツのサラダ、大根のマリネ。カレーは、しめじとチキンのココナツミルク白カレーにしました。

 色とりどりなカレーは、梅雨の湿気を吹き飛ばしてくれそうです。

(那覇市 七色)

(編コメ)これからの夏本番に向けてもカレーはぴったりですね。野菜のトッピングたっぷり、カラフルでおいしそうなカレーの描写に、編者もカレーを食べたくなってしまいました。

ライトの点灯で気持ちも明るく

 この梅雨時、車を運転していると、ハッとすることがたびたび。私は早朝の薄暗い時間に出勤するのですが、ライトをつけずに走っている車を時々見かけます。

 右折や左折をしようとした際、無灯火に気が付きにくく、危うくといった場面に遭遇したことも。霧のかかった日はなおさらです。

 30年近く前、カナダに留学していた際、曇りの日でもほとんどライトをつけて走行しているのを思い出しました。友人に聞くと、オートライト機能を備えた車が多いとか。

 近年は日本の新型車にも義務付けられるようになったようですが、それ以前に購入した車に乗っておられる方も多いと思います。

 事故を防ぐためにもお互い意識して点灯を心がけ、自分の存在を周囲にアピールしていきたいですね。

(南城市 猫飼いたい)

(編コメ)曇りや雨、霧の日は見通しが悪くなるので、車のライトをつけて走行するのが安全ですよね。県民みんなで、安全運転を心がけていきましょう。ちなみに編者も猫飼いたいです(笑)。

虫歯予防

 この年になって、歯の大切さを実感しています。年末に虫歯が大暴れ、痛み止めも効かず、顔全体が脈をうつ痛みに襲われました。「どうにかして!」との思いであちこちの歯科医院に電話をして、救いの主がやっと見つかりました。

 私の歯は根が深く頑固で、なかなか抜けず、お手数をおかけしました。力の加減、器具の取替え、歯科衛生士さんとの「あうん」の呼吸で、30分以上を要してやっと抜けました。その後の入れ歯の作製、フィット感のチェック、衰えていく歯肉との戦いは今も続いています。

 どうぞ歯を大切に。歯は健康の入口です。自分の歯でおいしく食べ、楽しく笑いたいものです。

(那覇市 おばば)

(編コメ)歯の痛み、大変な思いをなさいましたね。無事に抜歯がすみ、何よりです。お口の健康は、全身の疾患にまで影響を及ぼすといわれます。「歯は健康の入口」という言葉、編者も胸に刻みたいと思います。

電話の思い出

 わが家に電話が入ったのは昭和50年ごろだが、叔父・叔母はなじめず電話を取らなかった。

 ある日二人きりの時にベルが鳴ると、どちらとも電話に向かって「ターン、ウウラン(誰もいない)」とどなった。スマートホン同様、年配にはいつの世も慣れるまで時間を要します。

 また昭和45年、本土にいたころ。遠距離電話する時は、十円玉をいっぱい準備してかけた。話し中もかちかち落ちるお金の音を気にしながら追加、途中金不足で再電話する時もあった。本土から公衆電話で近況報告した時代が懐かしい。

(南城市 平良礼次)

(編コメ)電話に向かって話しかけるエピソードがとてもユーモラスで、落語のようです。それにしても、この50年の間に、電話機は驚くほど変化しましたね。電話機でニュースを調べたり、映画を見たりできるなんて、昔の人に言っても、信じてもらえないでしょうね。

姉との別れ

 昨年7人きょうだいの長女の姉の最期に姉妹で駆けつけた。

 7月の東京は30℃超えの酷暑の日々でした。亡くなる前の一週間、介護施設近くのホテルから長女姉の元へ通い、耳元で思い出話をしたり昭和歌謡や民謡をかけたりしました。

 東京オリンピックの前からの長きにわたる療養生活でした。病名宣告された時は、さぞ無念だったろうなぁ。思いを共有したく、合わせて5回上京しましたが、徐々に体の機能を奪われた姉を見るたびにせつなくなりました。

 姉は、多数の新聞投稿や好きな短歌で姉妹へたくさんの思い出を残してくれました。おかげで私も短歌を詠むのが趣味となりました。

 「陽炎が物語りのやう忘れまいきみといた日を町屋斎場」合掌。

(浦添市 みい子)

(編コメ)お姉さまとの別れ、つらかったですね。文章から、お姉さまとみい子さんの間の細やかな愛情が感じられ、涙させられました。お姉さまも、天国でみい子さんとの思い出を懐かしんでおられることでしょう。

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